親鸞聖人の深い恩徳に触れるご法要をご正忌報恩講と申します。私が住職をしているお寺ではご正忌報恩講を毎年11月22日23日の二日間勤まります。その間、床の間に若いお姿の親鸞聖人のご真影・ご絵像が飾られています。あるとき報恩講にお見えになられました布教師の先生が、この親鸞聖人のご絵像の下に薄くて見えにくいが、蓮如と書かれた署名があるのではないですか、と指摘されました。私も以前から蓮如上人がお書きになられた字体であると思っておりました。
蓮如上人とは本願寺第8代目住職をなされた方です。真宗の教えが人々に伝わりにくくなっていたとき、本来の浄土真宗の教えの建て直しに尽力された方です。よく掛け軸を拝見いたしますと、きちっと折り畳まれていた跡が残されています。きっと蓮如上人が民衆のところでお話をされるとき、「南無阿弥陀仏」とお書きになられたお名号とこの親鸞聖人のご絵像をお下げなされて、浄土真宗のお話をされたのではないか、と思います。蓮如上人は阿弥陀如来の教えを深く信じ、お念仏をいただいてお参りされたお方でございます。そして、浄土真宗の教えを明らかにしている『浄土三部経』や、親鸞聖人がお書きになられた書物を、よくよく拝読して欲しいと一人一人に願われて教えを伝えられた方でもいらっしゃいました。
この親鸞聖人のお姿を拝見致しますと、30代頃とお見受けいたします。つまり法然上人のところにおいでになられたときか、あるいは越後時代のお姿のようにお見受けされます。安城のご絵像とか熊皮のご絵像のお姿は、親鸞聖人の額に深いしわが描かれておられます。そのお顔のしわ一筋一筋に今までの歩まれてきた歴史を物語っているように伺えます。それに対して若き日のご絵像は、法然上人の教えを聞き逃すまいと、じっと前を向かれてお話を聞かれている凛々しいお姿のように受け止められます。
法然上人のもとにおいでになられた僅か6年の歳月は、今まで20年余り過ごしてきた比叡山での仏道以上の、非常に大事な時間を過ごされていたのでしょう。と申しますのも範宴と申されていたお名前を、法然上人自ら「僧の綽空」と仏弟子のお名前、ご法名を与えられました。さらに法然上人のお書きになられた『選択本願念仏集』を書き写し、さらに法然上人のお姿を写させていただきました。そこに法然上人自らお言葉を添えられたのであります。そしてさらに「釋の綽空」の法名を改めて「善信」という名をいただくことができたのです。この喜びは親鸞聖人がお亡くなりになるまで忘れられない、尊い教えとして抱かれていたことでありましょう。
この事実を通して思われることは、法然上人の善信という方への信頼感の大きさです。法然上人がお説きになられた教えを正しくいただかれ、それゆえ法然上人のもとにつどった人々の集まり、吉水教団を背負って立つべき求道者として重要視されていたのではないでしょうか。一説によりますと、承元の法難のとき、死罪にされる一人としてあげられていたといわれるほど、吉水教団において重要な念仏者であったのでしょう。それゆえに、朝廷におかれましては遠流に処すという弾圧を下さざるをえなかったと思うのです。しかし親鸞聖人は、この弾圧がなければ、都から遠い越後・関東の人々に浄土真宗の教えが届くご縁はなかったであろう、と思うと、法然上人との出遇いが如何に大きな意味をもっているのか改めて感じられました。そこにずーっと以前から遇うべくして遇えた宿縁の喜びは、すべてむだなものは何一つ無いと引き受けられたのでありました。
思えば親鸞聖人19歳のとき、聖徳太子のお骨が収められている磯長の叡福寺にお参りなされました。「この日本の国は誠に大乗仏教が行き渡る場所であります。だからよく仏陀釈尊によって説かれた教えを受け止めていただきたい。あなたの命はあとわずか10年足らずです。善信あなたこそ仏さまから願われている真の求道者なのです」という夢を見られました。まさに10年後の今法然上人の教えをいただいていることが、大乗仏教のもっとも大切な教えをいただいている、という感動を身にあげて感じられていたのではなかったでしょうか。自分の歩んでいくべき道が、仏さまの教えによって指し示されていたことを知るのでございます。
若き日のご絵像を拝見するたびに、お前はそのままの姿で往生できると言える自分であるのかと、私は自分に問うてみます。そのように親鸞聖人を見つめることは、自分自身を見つめることなのです。若き親鸞聖人のご絵像を通して、求道者として歩む大切さを教えられているのです。