本願寺の初代が親鸞聖人でいらっしゃいますが、その後を継がれた本願寺第2代目のご門首。どなたであるかご存じですか。私たちは親鸞聖人や本願寺第3代門首覚如上人・本願寺第8代目門首蓮如上人、そして東本願寺を創設されました本願寺第12代門首教如上人のお名前を知っている方が多いと思いますが、本願寺第2代目の門首のお名前は知らない方が多いのではないでしょうか。本願寺の2代目の門首は如信上人と申します。
親鸞聖人は常陸の国、今の茨城県を60歳前後に発たれて京都にお帰りになられました。その後に誕生された初めてのお孫さんが如信上人です。お父さんは善鸞大徳です。親鸞聖人が茨城の地を去られたあとの関東教団の中に、異議を申す人々が続発いたしました。そこで教えを正す人として親鸞聖人はご自分のご長男であります善鸞大徳を関東に遣わしました。善鸞大徳は異議を唱える人々に対して、お念仏を喜ぶ人々を惑わしてはならないと戒めておられました。が、いつの間にかお念仏をいただいていた念仏者を、混迷の底に突き落とす教えを善鸞大徳ご自身が述べておられるのです。このことをお聞きになられた親鸞聖人は、孫の如信上人を関東に遣わして、異議をただすよう申されたのでありました。
お念仏の教えを聞き仏様のお弟子になられた方につけるお名前を法名と申しますが、この如信というご法名は多分親鸞聖人がお付けになられたものだと思います。「仏様からいただいた真実信心は、仏様からいただいた真如である」という意味があるのでしょう。また、一生涯仏様の教えを信じ聴聞していただきたい、という願いのもとで如信と名づけられたのではないでしょうか。それ以降本願寺の列祖、つまり本願寺の跡を継がれたご門首のご法名の一字には必ずと言ってよいほど「如」という一字を付けられているのです。浄土真宗の教えを聞く身をただすような、仏教の歴史とお経の言葉の重さをこの一字に託されているのではないでしょうか。
それ以降如信上人は1300(正安2)年1月4日陸奥の国、その後常陸の国に編入されますが、今の茨城県久慈郡大子町です。当時ご門弟の乗善坊の庵で66歳でご入滅なされました。その間毎年、都に上り大谷本廟にお参りし、7日間親鸞聖人のご命日のお勤めをされたのです。都では本願寺第3代目の門首になります覚如上人もいつもお聞きになっておられたお一人であったと思います。後に『口伝鈔』という書物を残されます。これは如信上人が直接親鸞聖人からお聞きになられた物語を、ご命日のご法話として語られたものをまとめられたものであります。ご命日の集いを浄土真宗ではご正忌報恩講と申します。如信上人が入滅された以降、ますますご正忌報恩講が盛んにお勤めされるようになりました。如信上人はこのご正忌報恩講を浄土真宗の真髄の法要とされたのであります。
ここに新聞の切り抜きがあります。そこには「真宗大谷派 如信上人700回忌法要 終焉の地 大子町法龍寺で営む」。そうです。1999(平成11)年3月3日、4日の2日間大谷暢顕ご門首ご夫妻のご参詣をいただき、如信上人のご法話を聴聞するお寺、法龍寺で法要が勤まりました。連日530余名の親鸞聖人の教えを聞くひとびとが、境内地を埋め尽くしました。ご門首自らが発音しにくいおことばで、如信上人が勤められた報恩講の大切さをお述べになられました。私たちは頭を下げて拝聴させていただきました。
そのときあるご婦人は目がしらにハンカチをあてているのです。その方が申すのに「実は私の孫はまだ幼いのですが、ことばが思うように発音されないのです。きっとこの子はこのまま成長していくならば、人からからかわれたり仲間に入れてもらえないという寂しい思いをする子でしょう。だからいっそのことこの孫と共に自死しようと思い悩んでいたのです。ところが今日この法要に会わせていただき、ご門首さまが身体からおことばを、一言一句丁寧にご心境をお述べになられているお姿を拝見し、何と自分は傲慢な考え方をしていたのだろう、と頭を殴られた思いが致します」としみじみと語られておられました。生きる喜びを味わえたことが如信上人700回忌のご法要に出遇えた何よりのよろこびであったであろう、と思われました。