ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃洋(茨城県 專照寺)
第三回 心に響くことば音声を聞く

 朝起きますと私はおはようと家内に声を掛けます。おはようございますと返事が返ってきます。返事が返ってこないと昨日の問題が尾をひいているのかなぁとか、体がどこか悪いのではないかと色々心配いたします。ことば、私にとって無くてはならない大切なものです。自分の気持ちをことばに託して話をします。話すことによって相手に届きます。届いた相手は深くうなずき、確認することができます。
 このようにことばは相手と私とを結ぶ大切なかけ橋になるのです。このような詩に出会いました。聞きながらあーいい詩だなぁと思いました。いつの間にか口ずさんでいる自分に気づきました。こころに響いてきた詩はすぐ覚えてしまうのでしょうか。作者不詳の『ことば』という詩です。

  ひとつのことばでけんかして ひとつのことばでなかなおり
  ひとつのことばにおじぎして ひとつのことばにないている
  ひとつのことばはそれぞれに ひとつのいのちをもっている
  みんなでいおうよ ありがとう……と。

その通りだなぁと思いませんか。実に素直な気持ちが語られていると思います。一つ一つのことばには大切な重い歴史をもったいのちがあるのです。そのいのちが聞く人の心に響いてくるのではないでしょうか。とても良い詩であります。この詩は自分の血肉のように身についていますので、思わず口から自然に出てきてしまいます。
 ある時、幼い子供のお葬式がありました。子供を亡くされたお母さんは、子供が亡くなったとは思えないのです。しかし柩の中に収められている姿を見るたびに、この子は私に何を伝えようとしていたのか、何を知ってもらいたかったのか、それを知りたい。どうすれば知ることができるのだろうか、と尋ねられたことがありました。
 そのとき私はお釈迦様のことを思い出していました。お釈迦様がお亡くなりになられたとき、悲しむ仏弟子たちを前に、一人の仏弟子がこのように語られました。
「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。尊師はかつてあらかじめ、お説きになったではないですか。すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にすると。」お釈迦様はいつまでも生き続けられるということは無いのだ。いつかはこの世と別れて、境界を異にすると。つまりすべての人々は亡くなるとき、お念仏によってすべての人類が還るべき世界であるお浄土の世界に生まれ変わっていくのだよ、と語られています。
 そこで「お子さんが生前どういう話をしていましたか。その時の会話のことばを覚えておりますか。お母さんが忘れられないことばに触れていれば、そのことばの中に亡くなられたお子様のいのちが生きているのではないでしょうか」何気なしに語った一言が相手に届いたとき、意外な心境の変化をもたらすことがあるのです。
 私はこの詩を聞いたとき「たった一言で ひとは傷つき 心温まる 南無阿弥陀仏」と響いてまいりました。ケンカするのも仲直りするのも、お辞儀をするのもたったひとつの言葉によってされるものではないでしょうか。お茶を飲みながら他愛もない会話に花を咲かせている。その中の一言が聞く人にとって大きな示唆が与えられ、ああそうだったのかと思うこともあるでしょう。だからことばを使ってお互い話し合うことがいかに大切であるのか、改めて知らされた思いが致します。
 親鸞聖人もことばを大切に使われた方です。親鸞聖人ほど一つのことばのこころを尋ねながら、表現された人は余りおいでにならないほど綿密に調べられて書かれておられます。その親鸞聖人が亡くなられて今年で752年になりますが、その教えは今生きている人々に大きな影響を与え続けております。それは使われていることばがいつも新鮮に息づいているからです。その息づいている元にあることばが「南無阿弥陀仏」と申されるお念仏のこころです。私たちはダイナミックに躍動する「南無阿弥陀仏」というお念仏になった仏さまの働きを大切にして生きていきたいと思います。

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