ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃洋(茨城県 專照寺)
第五回 根としての真宗保育音声を聞く

 今は桜の枝々に青葉が生い茂っていますが、二ヶ月ほど前までは桜花爛漫な季節を迎えていたのです。私の住む町にも、1キロ半桜並木が道の両脇を飾っております。夜になりますとライトアップされて白い花びらが風に吹かれて踊っているように見えます。昨年も同じ桜を眺めながら、来年もこうして桜を見ることができるだろうか、と不安なこころがよぎりましたが、こうして今年も無事に見ることができ幸せを感じておりました。
 どうして私たちは開花を待ち遠しく思ったり散り行く桜を惜しんだり、美しい桜の花に心を奪われるのでしょうか。私たちの眼は美しいもの、物珍しいものを見つけて行く。つまり見えるものに興味を示すのです。花は枝の先に咲くもの。その枝は幹から皮を突き破って発芽します。それが枝になり美しい花や果物を実らせます。私が一番春の季節を感じますのは、枝の先に新しい青々とした小さな若葉が生まれ出たときです。周囲の空気が一変して新鮮さを感ずるのです。幹の太さを見て、あーもう50年育った幹なのだ、と感じます。50年100年の間いろいろな気象条件を通り抜けて、今こうして生きていることのすばらしさに、その木のいのちの歴史を感ずるのです。
 その木のいのちの力強さは、実は幹自身がもたらしているものではなく、私たちの目には見えませんが、「根」のいのちの力強さによるものなのです。大木に育てるのに必要な栄養素を吸い上げている「根」です。私はこの例えは大事なものだと思えてなりません。
 私の父は昭和の初期から幼児教育に力を注いでまいりました。当時、幼児教育そのものが殆ど知られていない時代でした。その幼児施設の名前を「日立徳風学園」と申し、幼稚園を経営しておりました。茨城県でも古い歴史をもっております。その幼稚園では毎朝お遊戯室に園児職員全員集まり、阿弥陀如来さまに手を合わせてお参りをします。「のーんのんののさまほとーけさま」という仏教讃歌から一日が始まります。当時はお孫さんと一緒におじいちゃんおばあちゃんたちも幼稚園に登園してきたそうであります。日立鉱山の共同浴場を改善して作られた幼稚園でしたが、おじいちゃんたちは外から園舎の窓ガラスを開けて首だけ中に入れて保育を眺めているのです。着物を着た女の先生が木の箱つまりオルガンから音が出たかと思えば、先生が孫たちの前で黄色い声を張り上げて歌っているのです。みんな驚いたそうです。月一回配られる幼児絵本キンダーブックという本が家庭の話題の中心として楽しまれていたそうです。
 今の時代からすると一種奇妙な感じもしますが、幼児教育の始まりはこんな状態ではなかったのでしょうか。だから父を見て多くの人は「子供好きのお坊さん」後になると新聞に「昭和の良寛さん」と紹介されることもありました。でも父は幼児が受けた大切な「教育」は大人になると忘れてしまいがちですが、それでも生きることを支える「根」が、この乳幼児期に植え付けられると言っていました。ですから三歳未満時の幼い子供の「教育」が大人の「根」になるのです。「知・情・意」と言われまして、感受性の強く、受け入れることのできる豊かな心は、この時期に育まれるのです。
 私たちはどの子供に対しても、「こころ豊かに、力強い子供に育ってほしい」と願っております。その願いを満たす保育が実は「真宗保育」と申されるのです。つまり浄土真宗の教えにもとづいて行う保育なのです。今その「真宗保育」のテーマが「本願に生き、ともに育ちあう保育」です。仏様の豊かないのちをいただきながら、光り輝く世界に触れて行く。そこにともに育てられて行く世界があります。私たちがこうして生きることのできる「根」っこには大地と海からいただくいのちがあるからです。
 親鸞聖人は、その大地を仏様からいただいた仏地、海を仏法からいただいた法海として触れていたのです。仏の大地に樹てられた願いと、いのちを育む宝の海。そこに私たちは豊かな社会風土に触れながら、青年のような大樹に育ち、枝葉には美しい花が咲きほころび、秋には豊かな果実が太陽の光を受けながら熟してくるのです。その果物をいただく人々は「おいしいねー」と笑顔でいただいているのです。人間も味のある人として成長したいものです。
 親鸞聖人によって明らかにされた「真宗保育」の「根」に触れる願いが如何に大事であるのか、伝わってまいります。

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