私は、真宗の教えとして大事にされている「報恩」、ご恩に報いていくという言葉を手掛かりにして、その「報恩」ということは、私たち一人ひとりが何らかの形で、親鸞聖人の教えに本当に出遇っていくことではないかと受け止めまして、考えて参りたいと思っています。
それで、第一回に引き続いて「お寺の掲示板」ということでお話しいたします。お寺の掲示板の短い言葉が人に伝えていくもの、人に及ぼしていく影響というものに、結構大きなものがあると申し上げたのですが、「言葉が、この身に刺さってくる」というような表現があります。私たちはこの日常生活を送って行く中で、知らない内に、まったく気付かない内に、この世間において当然なこととされている様々な価値観であるとか、世間の常識のようにされているもの、あるいは社会的な秩序のようなもの、そういう、言うてみれば「世間のものさし」というものに、どっぷりとこの身を漬け込んで生活をしているのではないかと思います。つまり、いつの間にか気付かない内に、そういう「世間のものさし」というものに当て嵌めて、それを依り処として、それを立場として、色々な物事を考えたり、判断したり、そのことで行動を起こしたりしながら、自分の身の回りに起こってくる様々な問題に対処して、その問題の解決を図ろうとしていると思います。ですから、もしその問題の解決が非常に難しいことになって、どうしてみようもなくなってくると、今度は、自分が知らない内に依り処としている「世間のものさし」によって、逆に苦しめられてくるということが起こってくるのではないかと思います。
それは例えば、障害とか病気に対して、私たちが根強く持っている「世間のものさし」というものがあると思います。これは私事になってしまいますが、私は結婚をしまして、長らく子供を授かることができませんでした。それが結婚八年目にして、ようやく女の子を授かることができました。その娘が生まれた時、妻の実家の方での出産でありましたので、家で待っていた私の母親に、無事生まれたことを連絡したのですが、その時即座に返ってきた言葉が「五体は満足か」という言葉でありました。その言葉が、もう十数年経っているのですが、未だに私の中に残っています。何かその時その言葉が、私の心の中に、棘のように刺さってくるような感覚を覚えました。もちろん、そのような言い方をしてきた母親を、今責めているわけではありません。確かに、その当時は、いきなりそんな言い方はないだろうという、怒りのようなものはありましたが、しかし、正直なところ、やはりそこに、障害をもたずに生まれてきてくれたことにどこかでホッとしている、そういう自分自身がいたのではないかと。その痛みが刺さってきた棘ではないかと思います。
何かそこのところに、言うてみれば「障害や病気を抱えて、人間として生きていくことは不幸である」というような、非常に根深い「世間のものさし」に囚われていた私というものがあったと思います。ですから、もし大きな障害とか重い病気を抱えて生きて行かなければならなくなった時、当に、その「世間のものさし」を立場として生きようとすれば、逆に「世間のものさし」によって、自分自身が苦しめられてくるということが起こってくるのではないかと思います。何か私たちは、そのようなことを、この日常生活の中で何度も繰り返していて、次第にその生活が行き詰ってきているのではないかと思うのです。
そのような時に、例えば先週お話した、お寺の掲示板のためにお金を送ってきて下さった方のように、お寺の掲示板の言葉に触れて、その言葉がこの身に刺さってきて、心に引っ掛かったり、心を打たれたり、「なるほどなあ、そうだなあ」と共感したり、感動したりすることが起こってくる。それはどういうことなのかと考えてみますと、それは知らない内に「世間のものさし」というものに、何ら疑いを持たずに充足しきっている私自身の中に、その「ものさし」との距離が生まれてくる。その「ものさし」に対してはじめて疑いが生まれてくる。それによって私自身が衝き動かされていくということではないかと思います。そして、そのことこそが私は、私たちが言葉を通して、教えに出遇っていくということではないかと思うのです。