親鸞聖人がその生涯をかけて、後に残って生きている私たち一人ひとりに向けられている眼差し、投げかけられているものは「どうか南無阿弥陀仏の念仏に出遇われて、念仏申して生きていって下さい」と、この一言に尽きているのではないかと思います。私自身、今、「念仏申して生きていく」ということで、一つ言えますことは、それは言うならば、私自身が常に仏様の前に座っていくことであるかなと受け止めています。
だいたい私たちが、仏様にお参りするといった時には、家のお仏壇の中のご本尊に向き合って手を合わせるという姿に象徴されるのではないかと思います。当に、「念仏申して生きていく」ということは、そういう姿に象られると思います。私自身が仏様の前に座っていくということは、それは言うてみれば、私の前に仏様がおられることになります。私の前に仏様がおられるということは、もう少し喩えると、私自身が大きな鏡の前に居るように、そこには、今の自分自身のごまかしようのない、ありのままの姿が、その大きな鏡に映し出されて見えてくるということだと思います。
そのように、今の自分自身のありのままの姿が見えてくるということは、そういう私の姿に気づかされるという意味があり、私の姿を知らされるということでもあると思います。そうやって、今の自分自身のありのままの姿が見えてくる。そういう姿に気づかされる。その姿を知らされてくる。これは、私たち人間にとって非常に大事なことではないかと思います。つまり気づかされた所から、また自分の生活を始めて行ける。知らされた所から、また自分の生活をやり直すことができる。繰り返し気づかされた所から、知らされた所から、生活を始めていくことができるということだと思います。だから、そこに気づかされることがないなら、知らされてくることがないなら、もしかすると、行き詰っていく自分の生活を、最後の最後まで続けていく他はないということで一生を終わることになるかもしれません。
私たちは日常生活の中で、家の中にお仏壇がなくても別に生活に支障をきたすことはないと思います。私たちの日常感覚からしますと、お仏壇は、実用的な意味での必要性というものは何もないと思います。しかし、昔からの古い家のように、家の中で一番上等な部屋にお仏壇が安置してある家はもちろんですが、新しく建てた家、あるいは新たに引っ越したアパートやマンションに、小さいながらもお仏壇を迎え入れ、ご本尊をお掛けしますと、そのとたんに何かそこが大切なところとして扱われ、日頃からお仏壇など大切にしようという意識のない人であっても、何かそこは簡単に手を付けられない特別なところという意識が、知らない内に植えつけられてくることがあると思います。例えば、田舎の家が絶えて、家を畳まれる時、お仏壇の始末に困られて、お寺に相談に来られるケースが多いのは、そのことを証明しています。
そして、少しの時間でもお仏壇の前に座ってみますと、そのことによって、何か非日常的なものに触れるという感覚を持つことがあると思います。それは例えば、色々なことに追い立てられたり、あくせくし、じたばたしている時間が続いて、イライラや不安や、はけ口のない不満に苛まれて、ドオッと自分自身に押し寄せてくる。それが当に現実の私たちの日常生活かと思いますが、その現実を抱えたまま、仏様の前に座ってみることで、ほんの少しの間であっても、そこにおいては、何かに追い立てられ、あくせくし、じたばたしている今の自分自身のありのままの姿を振り返り、見つめてみる時間と場所を持つことができると思います。そういう時間と場所というものを、この日常生活の中で少しでも持つことができるということこそが、私たち人間にとって大切であり、必要なことかと思います。しかしその大切さとか、必要性というものは、私たちの日常の意識、知識とか理性とか、そういう所からは決して出て来ないと思います。しかし、その出てくるはずのないものが出てくる。それはつまり、私自身の日常の意識が、日頃当然なこととしているものが、なんらかの形で破られていることだと思います。そのことが当に、今まで気づかなかったことに気づかされてくる。知らなかったことを知らされてくる。それによって私自身が衝き動かされてくるのだと思うのです。