先回は、親鸞聖人のご命日の法要として勤める、報恩講ということについて少し考えてみました。報恩講は、毎年十一月二十八日の親鸞聖人のご命日を機縁としまして、そこに人が集まってきて、親鸞聖人の御法事を皆さんと一緒に勤めていくということがその内容です。
今、「ご命日」と申しましたが、この「ご命日」という言葉を改めて考え直してみますと、文字にすれば「いのちの日」と書きます。そこには、ある特定の人の命が尽きた日であるということ、つまり亡くなった人の当り日、亡くなった人を記念する日だと、そういう私たちが普段から領解している意味合いだけではないように思うのです。つまり、「いのちの日」ということは、当に亡くなって行かれた方の死を通して、その人が生きて来られた、その人生というものを通して、その人と関わりを持って生きて来た自分自身が今こうして生きていることを、この命というものを改めて考え直してみる、問い直してみる日であるということも言えるのではないかと。つまり、自分自身と何らかの形で関わりを持って生きてきた、その亡くなった方の人生を通して、今こうして生きている自分自身の生き様を改めて見つめてみる、そういう日でもあるのではないかと思います。
そのことで少し考えてみますと、以前葬儀を勤めておりまして、思いが込められて、心に響いてきた弔辞に出遇うことがありました。亡くなった小学生時代の恩師の先生に対して、その教え子さんからの弔辞でありました。その教え子さんは、成人して学校の教師となり、恩師の先生ともずっと親交を続けておられたそうです。恩師の先生が生きておられた時のことから始められて、自分の人生において非常に苦しく困難な状況に置かれた時、その先生のことを想い起こすことで、そのことが心の支えとなり、それによって勇気づけられることが度々あったと。そしてこうして先生が亡くなられた今、これからも、私の中では先生は生き続けておられて私を見て下さっています。ですから私は、敢えて「さようなら」というお別れの言葉は申し上げません。それよりもむしろ、「ありがとうございました」とお礼の言葉を申し上げたいのですと。そのような内容でありました。何かそこには、言うてみれば、私のほうから死者の方へ向けている眼差しばかりでなく、それとは反対に死者の側の方から、この私自身に向けられている眼差しを感じ取り、受け止めて行こうとする姿勢というものがあると思います。
ひと昔前の人が、私の世代からすれば私の祖父母の世代位までの人たちが、日常の生活の中で、ごく自然に「仏様が見ておられる」というような言葉を使われていたかと思います。
この言葉は、人は亡くなったら仏様に成られる。そして当に死者の側の方からの眼差しを感じ取って、自分自身を見つめてきたというところから、出てきた言葉ではないかと思います。最近でも、テレビのドラマでそういう感覚に触れることがありました。そのドラマでヒロインが身内を亡くして気持ちが沈み込んでいたとき、昔、子供の頃、祖母からよく聞かされていた言葉を想い起こすのです。それは、「亡くなった人は居なくなってしまったのでないのだよ。眼には見えないけれどもいつもそばに居る。見守って下さっているのだよ」というような非常に素朴な言葉なんです。その言葉を想い起こしたことが切っ掛けとなって、再び生きる意欲を取り戻していくという場面がありました。この祖母の言葉にしても、それを想い起こしているヒロインにしても、そこに死者の側の方からの眼差しというものを感じ取り、受け止めている。そういう感覚というものを感じます。つまり、この死者の側の方からの眼差しというものに出遇っていく、触れていくことによって、私の中で、はっきりと切り離されてしまっている生と死というものが、一つに繋がってくることが起こってくるのではないかと思います。
この「ご命日」、「いのちの日」という言葉は、自分自身と何らかの形で関わりを持って生きて来られた、その亡くなった方の人生というものを通して、今こうして生きている自分自身の生き様を見つめてみる。そういう感覚を呼び起こす、そんな意味合いを含んでいる言葉ではないかと思います。