現代は、人類が始まって以来、めったに味わったことのない苦悩を、今を生きる私達が等しく背負わされている時代だと言えるのではないでしょうか。
人類がこの地球に誕生したその時から求めてきた事は、「幸福(しあわせ)になりたい」という一事であったと思います。人類の飽くなき幸福追求の営みの歴史の、その頂点にある現代の私達が、過去の人々が経験したことのないような苦悩を背負わねばならなくなったことは、誠に皮肉な事と言わなければなりません。
人類の幸福追求の唯一の武器は「知性」でありました。人間知性は、言葉を持ち、道具を使い、機械を作り、科学技術を発達させて、人間中心の快適で豊かな文明を築き上げてきました。又人間は、貨幣を作り、経済を発展させ、今や貨幣獲得・利潤追求に凌ぎを削る競争社会となっています。
驚異的な科学技術・ハイテク機器の発達によって、人間は夢に描いた多くの物を手に入れました。が、しかし同時に、人間知性は「核」を生み出し、一瞬にして人類を滅ぼす核兵器と、多大のエネルギーを供給する原子力発電を持つこととなったのです。これによって、私達は、核攻撃と、原発事故による放射能汚染の脅威に永久的におびえねばならない宿命を背負うこととなりました。
又、ともすれば精密機器が物質文明の中で、人間が人間として生きることを許さない、自分が自分でなくなってゆく非情な社会を造っています。
他方、資本主義による経済優先の価値観は、金銭さえ手に入れれば何でも応(かな)い、自由で快適な生活が保障されるという考えで、今までの煩わしい地縁、血縁の人間関係を切り捨て、同時に大事な人間と人間の関係性をも切り捨てることになって、人間の孤立化を深刻なものにしています。
この様な科学技術と資本主義経済の発展によって、現代の私達は便利で快適で高度な文明の恩恵を蒙ることとなった反面、同時に取り返しのつかない闇の面を抱え込むこととなったのです。
飽くなき欲望追求の人間の営みは、自然を破壊し、環境と生命体系を破壊し、やがて人間自身を破壊するという状況をもたらしているのだと思います。環境破壊は、様々な公害・大気汚染と温暖化による異常な夏の猛暑、集中豪雨、巨大台風、竜巻等、今まで経験したことのない異常気象に苦しめられることとなりました。
とりわけ私達の生き方を根本から問い直さざるを得ない出来事が一昨年の三月に起こりました。東日本大震災とそれによって引き起こされた福島第一原発の爆発という痛ましい出来事です。この出来事は、私達に「人間の分際」というものを思い知らせるものでありました。自然の猛威の前の人間の無力さ、なかんずく科学の限界と、それに傲(おご)って生きる人間の闇の面を改めて知らされました。人知の総決算たる原発が、自然の力の前に脆くも打ち砕かれ、逆に半永久的に放射能汚染の脅威に晒されるというこの事実は、科学技術のみを唯一の依り所にして私達の願望を満たそうとする生き方とその方向には、もはや人類の未来は無く、人間の真の幸福(しあわせ)も無いことに目を覚まさねばならない警鐘であります。
民族学者の故梅棹忠夫氏は、『わたしの生きがい論』という書物の中で「科学も人間の『業』みたいなもの」と言った後で、「科学は罪ぶかいものです。しかし業ですから、自分で業であることを自覚して、コントロールすることをしらなければいけない」と述べています。梅棹氏は終始人類の未来に悲観的でした。人間の業を自覚して、コントロールすることを知らなければ、野心と欲望が科学を進め、科学がまた無限に欲望を増幅させてゆく循環の中で、文明栄えて人間が滅んでゆくことになります。
「人間とは、私とは一体何であるか」。今、一人一人の足元から問いかけられています。
しかし、幸福(しあわせ)を求めて流転する私達を悲しみ、その流転の底を貫いて、人間の営みの罪と、愚かさに気づかせて、本来の人間に立ち帰らそうと願い呼びかけている真実生命の働きがあります。その生命根源の確かな声を、皆様と共に聞いてゆけたらと願っています。