ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 善隆(大阪府 即應寺)
第二回 人間と孤独音声を聞く

 先回は、人類が幸福(しあわせ)を求めて歩んできた結果、現代に生きる私達が背負わなければならなくなった苦悩の現況をお話しさせて頂きました。現代の様々な苦悩の中でも、最も深刻な苦悩は、「孤独」という問題であります。高度な物質文明社会は、人と人との関係をバラバラに引き裂き、その中で人間が人間でなくなり、自分が自分でなくなってゆく。どうやら人間という存在は、幸福(しあわせ)を手に入れる代価に、孤独の牢獄に閉じ込められていくようであります。
 「人間にとって死刑よりももっと重い刑罰がある。それは孤独という刑罰である。」という言葉をかつて恩師よりお聞きしました。人間はあらゆる苦悩に耐えられても、孤独には耐えられない。それは何故でしょうか。
 人間とは、字の如く「人と人との間柄を生きる者。他との関係性に於いて成り立つ存在」という意味です。ところが、幸福追求の願望というものは、他人(ひと)より前へ、上になりたいというエゴイズムの心でありますから、おのずから自分を支えてくれている周囲(まわり)との関係を切ってゆくことになります。自分の理想や願望に真面目に生きる生き方は、おのずから関係性を切っていく生き方であり、自分を成り立たせている「本来のいのちの事実」に背く方向となるのだと私はとらえています。
 「いのち」は、本来、二つの関係性を持っています。一つは、縦に繋がっている連続性です。命は親から賜わったもの。親もまたその親からと、親代々無窮に連続して受け継がれてきた「はかり知ることのできない無量の寿(いのち)」の歴史を頂いて、今ここに私の番を生きています。もう一つは、横に繋がっている連帯性です。命はこの世にうまれて以来、回りの人々のお世話によって養育され、又万物の命を頂戴し、宇宙一杯の「無限の寿(いのち)」に包まれ、支えられて、今ここに生かされて生きているのでありましょう。
 この世のどんな生命も、一つの生命(いのち)には、はるかな遠い過去から連続する無量の寿(いのち)と、はてしない宇宙と連帯する無限の寿(いのち)との関係性に依って生きているのであって、それ自身単独では生きられないのです。
 ところが、何故か人間は、物心つくなりその寿(いのち)を忘れて、自分可愛い愛着の心によって(これを仏教で我執と言います)自分中心の身勝手な思いを「私」として(これを自我と言います)、寿(いのち)を私有化し踏みつけて、「我が、私が」と傲然と生き出したのです。
 この根本的「自分の取り違い」を、仏教で「無明」と教えられ、ここに全ての苦悩の因(もと)となる人間の闇が生まれたと説かれるのです。
 この様に無量無限の寿(いのち)との繋がりに於いて成り立っている自分自身を見失い、その寿(いのち)の根っこを切ってしまって、根無し草となって漂流している私達は、本質的に孤独感情というものを免れないのです。
 「孤独」という言葉は、「孤」は親を亡くした児(こども)「孤児」ということ。「独」は反対に子を失くした老人「独老」ということで、「孤児独老」という孟子の言葉から来ているようです。現代に於いても、子供が親に見捨てられ、虐待を受け、殺されるという痛ましい状況が深刻化し、又核家族化・家庭崩壊が進んで一人暮らしのご老人が増え、孤独死或は自死されるお年寄りが増え続けています。子供・老人に限らず、現代はいのちの繋がりの感覚が稀薄になり、親子、夫婦、家族間の関係がバラバラとなって、誰もが深い孤独感を抱えて生きざるを得なくなっています。
「大いなる寿(いのち)」を説いた「仏説無量寿経」というお経に、「人、世間愛欲の中にあって、独り生まれ独り死し、独り去り独り来(きた)る」と説かれています。無量寿を忘れて生きる時、人は孤独のとりでに閉じ込められます。しかし、本来孤独があるのではない。孤独感情があるだけで、その孤独感の底を破って「無量寿に帰れ。そして常に無量寿を感覚し、無量寿を生きよ」と喚ぶ寿(いのち)の声を聞く時、私達は孤独から解放され人間を回復していく道が開けてくるのであります。

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