先回は、私達が「いのち」と言っているものに、生命と言っている目に見える生物的命のほかに、もう一つ、そういう形ある一切の命を生かし支えている、目に見えない無限・無量なる寿(いのち)があることをお話ししました。その無限な寿(いのち)の働きの中にこそ、真の自分があるにもかかわらず、人間はこの寿(いのち)の事実を見失って、目に見える肉体の命を「我れ、私」と執着し、自分を取り違えて生き始めた所に、全ての苦悩の原因があるのではないか。私達は「自分は自分だ」と解ったつもりで生きていますが、実はとんでもない「自分の取り違い」をしているのではないだろうかと、ほとけの教え、仏法を聞くことによって知らされてくるように思います。そこで今回は、自分というものを少し考えてみたいと思います。
「逃げれば追われ、受ければ通る、生死(しょうじ)の道(生と死と書いてしょうじといい、仏教では迷いのこの世を言います)」。これは私が学生時代、京都の大谷大学におられた恩師、広瀬杲先生から頂いた言葉で、今日に至るまで、事に当たって教えられ、噛みしめている言葉です。
仕事でも人間関係でも病気でも、どんな事でも、嫌な事や苦しい事、しんどい事から逃げようとすると、それは余計に苦しい事となって追いかけてきます。そして遂には逃げ切れず捕まってしまうのです。
反対に、しんどい事でも覚悟を決めて、「エイ」と身をもって受け取ってゆくと、初めは苦しくても、段々と苦しさは軽減し、やがて楽に通りぬけてゆけるようになります。「逃げれば追われ、受ければ通る」。人生すべて不思議にそうなっているようです。
誰しも、現実生活の中でこのような体験をされているのではないでしょうか。予想もしない困難な事に突き当たった時、初めはお先真っ暗なトンネルに入ったようで、とてもやってゆけないように思う。しかし、苦しいからといって、後戻りすることも、その場に座り込むことも出来ません。苦しくても辛くてもその現実を受けとめて、トンネルの中を一歩一歩と歩んでゆく外はありません。そうすると段々暗闇も明るくなり、苦しさも軽くなり、やがてトンネルを通りぬけ、明るい世界が開けてくる。与えられた事を真正面から受け取ってゆけば、自然とそれを乗り越えてゆく力が与えられてくることを、生活を通して体得されるのでないでしょうか。
この事から、私の中には二つの自分があることを知らされるのです。
一つは、苦しい事、都合の悪い事からいつも逃げようとする自分。そして楽な方へ、都合の良い方へと流れてゆく甘い、虫の良い自分です。これは平生「私が、俺が」と言っている自我(勝手な思い)の自分で、常に計算高く、ご都合主義で、私自身を振り廻し、誑かす魔物の自分です。人生を踏みはずしたり、道を誤らせたりするのも、この自分可愛い、自己中心の自我の心の言いなりになったことが原因ではないでしょうか。
もう一人の自分は、苦しい事も、都合の悪い事も、全部を受け容れて黙々と生きている自分がある。風邪を引いても、病気をしても文句も言わず受けとめて、熱や汗を出したり、ひたすら癒(なお)ろう、生きよう、生かそうと働いてくれている身。これは、自我ではなく、「私が」と思う以前に既に生きている「いのちそのもの」の自分、即ち自己自身であります。実はこの自己のお陰で、どんな苦境も荷われ支えられ、どんな作る罪も許され、助けられて今日まで生きてこられたのでありましょう。
この自己は、他の全ての生命と共に現に生き、また「共に生きたい」と願っています。この願い、要求こそ、量ることのできない無量な、阿弥陀の寿(いのち)の中に生かされている本来の自分であります。
この自己に目覚め、自己本源の寿(いのち)の要求の、声なき声を聞いてゆく時、自我の妄執に苦しめられ、振り廻されて自分を見失っていた事に気づかされて、ありのままで深くて豊かな寿(いのち)を生きる身に帰らせて頂くのであります。