ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 善隆(大阪府 即應寺)
第六回 苦悩の有情(うじょう)を捨てずして
音声を聞く

 仏教では、人間は苦悩する存在だととらえます。この世に生まれた限り誰しも、次から次へと問題が起こって、あれを何とかしなければ、これを何とかと問題の解決に追われます。でも、その解決は一時の応急処置であって、解決した底から又新たな問題が起こってくる。どこまで行ってもこれで良いということはありません。そうしている内に、時は刻々と流れ、知らずの内に老いゆき、病を得、そして確実に死に至るのです。今どんなにお金があり、地位名誉があり、健康に恵まれ幸せ一杯に見えても、「老い」と「病い」と「死」は全ての人に平等に押し寄せ、積み上げてきた全てを壊し消し去ってゆく。生きているという事は、直接苦と感じる「苦苦(くく)」これは苦しいという字を二つ重ねて書きます。そして幸せが壊れてゆく不安という「壊苦(えく)」これは壊れるに苦と書きます。更に一生が空しく去るという一層深い「行苦(ぎょうく)」これは移り行くの、行く苦と書きます。この三つの苦を抱えていると仏教は教えます。
 しかしただ単に苦悩を受けている存在ではなく、その苦しみの故に真実なるものを求める心を持ち、道を求める寿(いのち)を生きる存在と見るのが仏教の人間をとらえる眼(まなこ)であります。
 苦しんでいるという事は、そこに真実を尋ねていることであり、人生を深く問うていることであります。問いのある所にこそ道は開け、問いの無い所には救いはないのでしょう。そこに、苦悩の人の上に、その者を救わんと働く如来の本願の真実(まこと)・尊さを拝むことが出来るのであります。
 つい先日、東北の大震災の津波で、お子さんを失くされ、未だにそのご遺体も見つからず、悲しみを抱いて悶々と苦悩されている若いお母さんが、その思いを語られている姿がテレビに映されていました。悲しみを噛みしめ、自らに問い確かめながら、お子さんがいないのに、母親であるご自分が生きていていいのだろうかと自分を責め続けておられる。しかし、お子さんがいたからこそ、今の自分があり、そのお子さんが生まれたから、今の人生があるのだと思いたいと話されていました。
 まさかの災害で最愛の子を奪われ、未だに生死も確認できない不条理。深い悲しみと共に、「何故私がこんな目に遇わねばならないのか。」という、愚痴にしかならないような思いをジッと抱えて生きるその苦悩が、やがて、お子さんが生まれてきた意味、そして自分自身の人生の意味を問う、根源的問いへと深められていることに尊いものを感じるのです。
 身近な人を失くした事がご縁で、ほとけの教えを聞くようになられた方は、沢山おられます。愛する人との別離の悲しみが、人生の意味を求めずにはおれないようにお育てくださるのだと思います。大切な人を失くした悲しみが語りかけている意味を、残された者が聞き取り、教えられ、そこから新しい人生の歩みが始まってゆくことが願われているのでありましょう。
 悲しみをジッと受けとめ、ほとけ様の呼びかけを聞いていくならば、きっと「亡き人のお陰で、あんな悲しみに出遇ったお陰で、新たな真実の人生を見出すことができました」と、言える世界が開けてくるに違いありません。
 「如来の作願(さがん)をたずぬれば、苦悩の有情(うじょう)をすてずして、回向を首(しゅ)としたまいて、大悲心をば成就せり」と親鸞聖人は詩(うた)われています。
 阿弥陀如来がお建てくださった本願のお心は、人間の苦しみや悲しみを取り除いて助けるというのではなく、苦悩する人間そのものを大切な機縁として、南無阿弥陀仏のお念仏となって、苦悩の存在を丸ごと包み、荷って歩まれる限りないお慈悲を完成成就してくださったのだと、親鸞聖人は喜ばれているのであります。

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