ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 善隆(大阪府 即應寺)
第五回 人生の帰依処(きえしょ)音声を聞く

 最近、「自分捜し」ということがよく言われます。この人生、誰もが、本当の自分を捜し求めて歩んでいる人生の旅人とも言えるのでないでしょうか。しかし、自分を捜し求める程、自分に出遇えないという所に、又人生の悲劇性があるのでないでしょうか。
 幸せを求めて一生懸命に生きてきたのに、今の自分が真底喜べない、こんなはずではなかったというなら、これほど悲しい事はありません。
 今の私に何か空しいもの、淋しいもの、不安なものを感じるとするなら、それは私の心の奥底に、私の思いを超えた「空しくない、淋しくない、確かな寿(いのち)」が働いている証拠である。今ここに、この身を生かしめている「真実の寿(いのち)に、今目覚めよ」と、量ることのできない、まことのいのちである、真実無量なる寿(いのち)の方から呼びかけている催促であるということをお話しさせて頂きました。その寿(いのち)の促しこそ、かすかではあるが、人類の歴史の底を貫いて休(や)むことのない永遠にして普遍なる真理の名告り・叫びであるにもかかわらず、人間はその寿(いのち)の声を聞かずに空しく過ぎてきたのであります。
 親鸞聖人は、その真実なる寿(いのち)に目覚めた感動を「帰命無量寿如来」と詩(うた)われました。無限なるものの前に、有限なる自身を発見した驚きと感動。その有限なる者が、無限の現われとして今ここに生きていた。「お陰様でありました」と、真底この身を頂かれた「自己誕生の産声」であります。「帰命」は、「帰依する・命(めい)に帰す」という意味と共に、親鸞聖人は更に「帰命は、本願招喚の勅命なり」と聞き取られたのです。「本願招喚の勅命」とは、私達の人生に対して「我が国に生まれんと欲(おも)うて我が名を称えよ」と、寿(いのち)の故郷から「本国に帰れ」と呼びかけている絶対命令ということで、それが「南無阿弥陀仏」という言葉になって呼びかけている。「南無」は「帰命」ということで、「元の寿(いのち)に帰れ」という阿弥陀の呼びかけに「はい」と応答したことです。阿弥陀の呼びかけに応ずる時、様々な縁に動かされ、自分の心に煩わされ悩まされてさ迷う私の人生に、確かな方向が与えられ、そのままで立ち返ることの出来る大地が開かれてくるのであります。苦しみが無くなるのでも、迷わなくなるのでもありません。「迷いが無くなる救いよりも、どこまでも安んじて迷ってゆける道があった。そのことが頼もしい」と言われた先生があります。ちょっとした縁で心が迷い、自分を見失ってしまう私。そういう、縁に動かされて生きる存在を、「汝是れ凡夫なり」と見抜き通し、その凡夫を助けたいと、私を荷って立つ大地となって、「ただ念仏して弥陀に助けられよ」と呼び続ける、はかりしれない慈悲である大悲の親があった。
 先日ある座談会で、60歳くらいのご婦人が質問されました。「私は数日前、携帯を落としてしまい、それがショックで、それ以来落ち込んでなかなか立ち直れません。日頃は“平常心”で居ることを心掛けているのに、こんな事で心が動揺してしまうなんて。こんな事ではダメだと思うのですが、どうにもなりません。どうしたらよろしいでしょうか」と。
 私達の心は、そういうものですね。思い通りの時には調子に乗っているかと思えば、ちょっとした事にもすぐ心が動揺したり落ち込んだり。誠に心コロコロで、我が心ながら頼りのない弱いものです。それが本当の私というものでしょう。そういう私を無理に立て直していくのでなく、頼りのないまんまで、安心して立ち帰ることのできる大地がある。それが頼もしいのです。どんな生き方をしている私をも見捨てずに、無条件で受けとめ荷って歩む如来大悲の世界がある。善いも悪いも、私の丸ごとを摂(おさ)め取って捨てたまわない如来の大悲に触れるならば、頼りのない私そのままに、現実を引き受けて「生きよう」と立ち上がって歩んでいく勇気を賜るのであります。
 人生にどれ程の問題があり、悩みがあっても、ほとけの御名を称え、大悲のお心を知らせて頂くならば、そのまま安んじて帰り、依って立つ、人生の帰依処(きえしょ)、即ち存在の故郷であり、人生の立脚地を賜るのであります。

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