ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 善隆(大阪府 即應寺)
第三回 道を求めるいのち音声を聞く

 先回は、現代を生きる人間の最も重い苦悩は孤独であり、それは私達を生かしている「いのち」の大事な関係性を切ってしまった所から必然する苦悩だと申し上げました。この事は、いのちというものには、実は二つあることを物語っています。一つは、普通「生命」と言っている生物的命です。ある時生まれ、ある時死する形に現れた有限な命です。しかしこれだけがいのちではなく、もう一つ、一切の生命を生かしている無限、無量なる寿(いのち)があります。
 私達の生と死を貫き、生も死も包んで、今ここに私を生かしめている永遠・真実なる寿(いのち)があった。その寿(いのち)の名を、古代インドの言葉で「アミター」と言い表し、中国の言葉で量ることのできないいのちという意味で「無量寿」と訳されました。その真の寿(いのち)を見失って、願望・欲望の無限追求に生きて、空しく流されてきた人類の歴史の底にあって、その流され、空しく過ぎる全ての存在を助けんと働く寿(いのち)。その無量・真実なる寿(いのち)に目覚めた人・仏陀によって説き顕わされたお経が『仏説無量寿経』です。この経によれば、無量寿という寿は、いのち生きるよろずの衆生を平等に助けたいという願いを建て、道を求めて止まない求道する魂となって全ての衆生の中に働きかけていると説かれます。生きることの苦しみ、悲しみ、淋しさ、空しさを感ずる時、私達は「人生一体何の為に生きているのだろう」「何故生きねばならないのか」「私は一体どうなりたいのだろう」といった掴み所の無いような問いにフッと襲われることはないでしょうか。
 私のお寺のいわゆる檀家を私どもは門徒と呼びますが、そのご門徒で、停年退職されてから、親、先祖の為にとポツポツお寺に足を運んで仏法を聞かれる内に、「これは亡くなった者の為ではなかった。自分自身の生きることの大事な問題であった」と気付かれ、積極的にほとけの教えを聞かれるようになった方があります。仕事も無事に終え、子供の手も離れ、夫婦共に健康で言う事のない境遇にはあるけれども、「何か人生、空しいものを感じる。何か人生に大事なことをし残しているようで」と自問しながら、人生の忘れ物を探しに、熱心に教えを聞かれているのです。これは誠に不思議な、尊い事と言わねばなりません。私の思いがどれだけ満たされようとも、決して満たされることのない空洞がある。どんな欲しい物が手に入ろうとも、どんな好きな人と一緒になっても、決して満たされない何かがある。「まあ人生こんなもんだ」と座り込もうとするや、その奥から「それでいいのか」と問い掛けてくるものがある。それが、「私の思い」よりなお深く、「生きる真の意味」を問い尋ねている「もう一つの寿(いのち)があるという証でありましょう。
 その道を求めてやまない魂を『無量寿経』では「法蔵菩薩」と表し、流転する人々をどうすれば救えるかと思案し修行し続けて、遂に「浄土」という真に幸(さち)ある世界と成って「我が国に生まれんと欲(おも)うて我が名を称えよ」と願い呼ぶ仏・南無阿弥陀仏と成られたと象徴的に説き顕わされています。
 浄土とは、寿(いのち)生きる全ての存在がそこへ帰って、「身が安らぎ」、同時に全ての存在が「平等に一つに出遇う」ことのできる、生命の本質、本来の世界です。幸福(しあわせ)を求めて孤独に堕ち、真実の国を求めつつ破れ、傷つけ合って流転してきた私達迷いの衆生を、「ここへ帰れ」と呼び続ける命の故郷であり、真実の国土であります。人生の「身の置き処」を失い、真の方向を見失ってさ迷う私が、その国からの喚ぶ声を聞いてみれば、それこそが私の真の願いであった。どんな生き方をしていても、そこへ帰れば身が安らぎ心が養われて、瑞々しい自分を回復する。そして様々な状況にバラバラに生きているもの同士が、真に平等に一つに出遇える「寿(いのち)そのものの世界」、浄土に帰りたいと願っていたのです。その寿(いのち)の喚ぶ声を聞く時、孤独の塞(とりで)はおのずから破れ、私「一人(いちにん)」に独立し、あらゆる存在と平等に出遇ってゆける明るく賑やかな世界が開けてくるのであります。

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