近年問題視されている社会現象の一つに、「自殺」の問題があります。内閣府のデータによりますと、昨年、平成24年中のわが国の自殺者は、27,858人。平成10年から23年までは3万人を越えて推移していますから、やや減少したとは言うものの、交通事故でお亡くなりになった方の6倍以上の数になる事からも分かると通り、相変わらず目を覆いたくなる数と言わなければならないでしょう。現代社会の抱える闇の一端を見る気がいたします。
痛ましいことです。今、痛ましいことと申し上げましたが、では、自らいのちを断つという行為が、なぜ、そんなに痛ましいことなのでしょうか。身勝手な行為で、人様に迷惑がかかるからと言う方もあるかもしれません。
ではもし、自殺をされた方に、その人を心配してくれる身内や友人も無く、誰にも迷惑をかけず、人知れずひっそりとジャングルの奥地ででもお亡くなりになったならば、どうでしょうか。そういう条件なら、それは、その人のいのちだから、その人の判断に任せるしかない、そんな理屈も成り立ってしまう気がしないでもありません。しかし、いのちを考える上では、そうは簡単にわりきれない感情があります。やはり、自殺という行為自体を断じて見逃すことが出来ない何かがあります。この感情の正体は一体何なのでしょうか。
ノンフィクション作家、高橋秀実さんの『からくり民主主義』という本の中にこんなことが、紹介されていました。富士山青木が原、密林のように木の生い茂った樹海と呼ばれるところで自殺を試みた人の話です。地元の人が捜索していると中年男性が助けを求めてきたというのです。高い枯れ木にロープをかけ、首を吊ろうとした瞬間にポキッと折れ、地面に落ちたと。村人が「大丈夫か?」と問うと、本人は「びっくりしました。死ぬかと思いました」と答えたというのです。ラジオをお聴きの皆さんの失笑をかったかもしれませんが、本気で笑えない実話なのです。
しかしこのエピソードの中に、「いのちは、誰のものか」を考えるヒントがあるような気がいたします。
つまりは、この方が脳で考えていたいのちと、実際にわが身、身体に生きていたいのちとは、別物だったということではないでしょうか。
私たちが、普段、頭で考えているいのちは、私物化したいのちに他なりません。だから、極論を言えば、わが判断で、わがいのちを絶つ、ということが起こりうるのでしょう。しかし、いざ、木の枝が折れて、地面に身体がしこたま叩きつけられてみれば、身から出た言葉は、思ってもみない「死ぬかと思った」という言葉だった。わが身に生きている本当のいのちは、脳とは正反対に、一息たりとも無駄にすることなく生き続けようと働いていたと気づいた、ということでしょう。
それは、過去、量ることの出来ないご先祖様、ご先祖と言っても人間だけではありません。猿も、ゴキブリも、魚も、草も、みずすましも、海草も、珊瑚も。無数の先達によってこの身に届いてくださっているいのちでありましょう。
また、他のいのちを頂かねば生きていけないことが示す様に、あるいは、私の身体に数え切れない微生物が住んでいて、お互いのいのちを支えあっているように、今、同じ時を生きている、すべてのいのちとひとつに、共に生きていると。今、話をしている私もまた、今、聞いてくださっているあなたによって成り立っている、そういった無数の縁によって成り立つ、ひとつのいのちであると。
いのちは、私が思い及ぶような小さなものでも、固有のものでもないのだと、親鸞聖人はお釈迦様の言葉から『無量寿』=量ることの出来ないいのち、といただかれたのです。言い換えればそれは、仏様のいのちとしか言いようのないいのちです。私たち真宗の頂き方で申せば、阿弥陀様のいのちがこの身に生きてくださっているのです。だから、いのちは尊いと断言できるのではないでしょうか。無駄にしてはいけないと言えるのではないでしょうか。
私たち真宗大谷派、東本願寺では、2011年に宗祖親鸞聖人750回御遠忌をお勤めし、そのテーマに「今、いのちがあなたを生きている」を掲げています。