昨年話題になったニュースの中に、松江市教育委員会によって、市内の小中学校の図書館で「はだしのゲン」という漫画が一旦、閲覧制限されたというものがあります。
ご承知の通り「はだしのゲン」は、昭和20年8月6日に広島へ投下された原子爆弾で被爆した中沢啓治さんが、実体験を基に描かれた漫画で、戦争、原爆の悲惨さを後世に伝える、語り継ぐべき作品として、海外にも多く訳されて紹介されてきました。
しかし、暴力描写や、歴史認識について子供たちに悪影響を与えるとの抗議があり、市教委の事務局の判断により、校長先生の集まる会議、校長会に閲覧の制限を求め、一時は閉架という状態になった、というものでした。
この時点で、世間の注目を集める事となり、世論も賛成、反対に分かれ、報道も加熱しました。
やがてこのことは、教育委員に説明無く進められたことが「手続き上の不備」として、改めて委員の間で協議され、閲覧の制限要請は撤回されるにいたりました。
この出来事の善し悪しについて、個人的な意見はありますが、それを申し上げてもう一度議論を再燃させようというのではありません。
問題にしたいのは、それにしても、人にはそれぞれいろんな正義があるものだなあと、つくづく思わされた出来事であったということです。ことほどさように、人の考える正義というものは、自分の置かれた立場や環境など、いろいろな条件で正反対にも表れるものなのだと痛感させられました。
親鸞聖人存命中の直接の弟子であった唯円によって書かれた『歎異抄』に、こんな言葉が見られます。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と。親鸞聖人から唯円が直接聞いた言葉として紹介されています。
現代語訳いたしますと、「私は善いも悪いも、どちらもまったく知りません。なぜなら、阿弥陀様が善い、悪いと思われるほどに、知り尽くしたのなら、善い、悪い、の判断が出来ると言えるのでしょう。けれども、私は、あらゆる煩悩をことごとくもっている凡夫であり、この世界は、たちまちに変化して、しばらくも同じ形を保たない無常の世界であります。あらゆることは、みなことごとく、そらごとであり、たわごとでありまして、まことではありません、ただ念仏だけは、変わることなきまことであります」こんな意味になります。
私たち凡夫は、阿弥陀様と違い、たまたま自分が男であるとか、日本人に生まれたとか、大人であるとか、様々な条件から、今自分の縁にピッタリ来る善を正義とし、押し付けあっているのでしょう。だからこそ、私たちにその己の姿を映し出す鏡として仏法があり、お念仏があるのでしょう。
明治時代に、お念仏を喜ばれた仏教詩人に、浅原才市さんがおられます。夫婦喧嘩の後に、こんなうたを作っておられます。
おらのかかあの寝姿見れば
じごくの鬼にそのまんま
うちには鬼が二匹おる
女鬼に男鬼
あさましや あさましや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
最初は、けんかした奥さんを、鬼のように感じたのです。しかし、しばらくすると身からお念仏が湧き上がり、奥さんを鬼にしてしまった自分の方こそ大鬼であったと気づかれるのです。
時には、自分が正義と思っていたものすら、鬼であったと気づかしてくださる転換。そんなはたらきがお念仏のはたらきです。
図書館が、自分の物差しの善悪であふれたら、それは図書館でなくなってしまいます。いろんな物差しに出会えるのが図書館であったということでしょう。考えさせられる出来事でした。