就職難がいわれて久しくなります。また、厚生労働省の調べでは、近年の大学新卒者の3年以内の離職率は、30%を越えていると報告されています。バブル崩壊以降、リストラ、派遣切りなど一昔前には聞かれなかった言葉があふれるようになり、終身雇用が当たり前の時代とは「仕事」というものへの考え方に随分変化が現れているようです。
先日、私どものご門徒、信者である宮崎さんのお宅へ、ご命日の参りをさせていただいた時のことです。
ご主人の方は、何年か前に会社を定年退職され、ご夫婦で平穏なお暮らしのようにお見受けしています。日頃より日曜大工などをされ、器用なお方なので、会社でどんな仕事をされていたのか、ふと気になりお尋ねしたところ、名の通った大手機械メーカーの社内報を、照れくさそうに持ってきてくださいました。
少し変色した、その裏表紙には、大きくカラー刷りで、油圧製品の部品を研磨する一級の技術者としてのご本人が紹介されていました。
潤滑機器から油が漏れ出さないためには、髪の毛の太さ10分の1の精度を生み出す技術が必要であり、それは機械では成しえず、先進の工場においても、最後には熟練の「人」の手、指先の感覚で削る場所が決まるというのです。そして、その研磨技術を習得している貴重な技術者として宮崎さんが紹介されていたのです。
学校を出られて以降、その道一筋のお仕事を、はにかみつつも語ってくださいました。生きがいを感じながらの幸せな仕事であったことが伺えます。自分のことのように誇らしく思ったものです。
話は変わりますが、私は保護司というボランティアをさせていただいております。不幸にして犯罪や非行に陥った人たちの、更正保護のお手伝いをさせていただくお役目です。その活動の中でも「仕事」について考えさせられることがたびたびあります。
再犯を左右する条件の一つに、本人が仕事に就いているか、否かが、大きく関わってきます。そういう意味で、就労支援は処遇の中の大きなウエイトを占めます。経済的安定に加え、何よりも、仕事によって得られる達成感や、生きがいが人の心を安定させるのは間違いないようです。
しかしこれがなかなか思うようにいきません。求人は決して多いとは言えず、本人の思うように職が見つからない人が大半です。やっと仕事に就いてくれたと安心するのもつかの間、「この仕事は、自分に向いていない」あるいは「私の思っていた仕事内容ではなかった」と、あっさり辞めてしまうケースも多いように感じます。雇う側も、正規雇用を避ける傾向が強いようです。厳しい競争社会、縁を断ち切ったり、断ち切られたりのなかで、自分の居場所を見失った人たちが、やり場のない感情を、関係のない第三者に向けてしまうという、悲惨な事件が後を絶ちません。
そもそも自分に合った仕事とは何なのか?と考えさせられます。
自分に合った仕事のことを日本語では「天職」といいますが、英語ではcallingといい、神様から呼ばれているという感覚の言葉だそうです。自発的に出会うというよりも、神のお召しであると。仏教的に言えば「ご縁」ということでしょうか。
親鸞聖人が著された『教行信証』のなかに、「今の時の道俗、己が分を思量せよ」というお言葉があります。
自分の分限を知り、出来ることと、出来ないことを見極め、そのまんまの自分を尽くすことで生きる道が開けるということです。
縁によって生かされているいのちを信じ、自分の分限を尽くせば、それは自ずと自分を生かしてくださっている大いなるいのちに恩返しをしていることになるのだと。厳しい競争一辺倒の社会に埋没することなく、そこに、生きがいが生まれるということではないでしょうか。
自分の囚われから解放されるお念仏の世界がそこにあります。職を求める側にも、雇う側にも、現代を生きる私たちに生き方を問い直せとのご催促に思えてなりません。
冒頭にご紹介した宮崎さんは、会話の最後に、「会社が、この仕事を私にやらせてくれとったんですなあ」と、ぽつりとおっしゃいました。