ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮部 渡(大阪府 西稱寺)
第三回 さわりとはなにか音声を聞く

 生きていくうえで障害になることを「さわり」といいます。その最たるものが災害といえるのではないでしょうか。
 日本では、東京オリンピック招致や、景気回復の兆しのニュースも聞かれる一方、原発事故を含む東日本大震災の復興は、進んでいるとはとても言いがたいと思います。避難しておられる方の数もいまだ28万人以上と伝えられています。また、今年も台風、竜巻などによる災害が各地に痛ましい爪あとを残し、改めて自然の驚異と人間の無力を思わずにはいられません。
 親鸞聖人の生きられた時代もまた、飢餓や疫病が蔓延し、想像を絶する絶望感に満ち満ちた時代でありました。そんな時代に真の救いを求めて仏道を歩まれた親鸞聖人の教えは、現代の私たちにどんな力を与えてくれるのでしょうか。
 親鸞聖人の教えを深く学び、広められた方に、本願寺第8代、蓮如上人がおられます。この方の歌に、「火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は ものの数かは」、「火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は ものの数かは」と言うものがあります。
 火事の真只中、ぼうぼうと燃え盛る炎の中をかき分けてでも仏法は聞かなければならない、ですから、雨が降っているから、風が強いから、雪が降るから、そんな自分の都合、悪条件を言い訳にするのはもってのほかであると。この機会は二度とないのだ、と、日ごろつい顔を出す怠け心をいましめてくださっている、励ましの歌であると頂いております。
 この歌をはじめて知ったのは19年前。私たちの宗派、真宗大谷派の各寺院に、東本願寺より毎月届けられる「真宗」という機関誌に掲載された、ある記事からでした。
 1995年の阪神・淡路大震災から、1年後、神戸市内の御寺院の住職さんが、ご自身とお寺、現地の方々の被災の状況、復興活動の様子を、克明にご報告いただいた記事の中でご紹介くださっていたのです。
 本堂が荷物置場となり、交通網寸断のため、毎年お勤めされていた永代経法要をやむをえず中止されたときのこと。そのお寺の信者である何人かの門徒さんから、「何だ、『火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪はものの数かは』との言葉を引いて説教したのはどこの誰だ」とお叱りを受けた、というのです。
そして、この出来事は、ご住職にとって、とても勇気づけられ、嬉しい出来事として報告されていました。
 察するに、このご住職は、日ごろより皆さんに熱心に仏法を説いておられ、法話の時、この歌を何度となく引用され、聞かれた人たちの心に留まっていたのでしょう。そして、自分が生きることに精一杯の、苦しい不便な生活を余儀なくされている真只中で、人々にその言葉が、はたらき出したという事でしょう。そんなさなかだからこそ真実をたずねずにはおれないエネルギーとして、今こそ仏法を聞かねばいられないと。
 親鸞聖人がつくられたうた、和讃のなかに、「一切の有碍にさわりなし」という言葉があります。真宗の信者、門徒の方々には、日常のお勤めに用いられていますのでおなじみのことと思います。
 かつて、この言葉の意味を学ばしていただいた時に、「如来、阿弥陀様の徳は、さわり、つまり悪条件となることがあっても、それが少しもさわり、妨げにならない。それどころか、かえって阿弥陀様の徳を表現されていくものになっていく」と教わりました。
その時は、何のことかさっぱり理解出来ませんでしたが、先ほどご紹介させていただいた記事に触れ、初めて、なるほどと、うなずかせていただきました。
 悲しく、つらい出来事ではありますが、さわりの中にこそ仏法は響いてくださるのでした。
 東日本大震災と、原発事故によって今なお苦しい生活を余儀なくされておられる方々に、何のお力にもなれていない私がいます。しかし、その事実を忘れることなく、少しでも自分に出来る事を考えながら、念仏者としての道を歩ませてもらわなければならないと思っています。

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