ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮部 渡(大阪府 西稱寺)
第六回 死とはなにか
音声を聞く

 最近、自分の人生のエンディングを考える「終活」や、身内だけのお葬式「家族葬」といった言葉が定着してきました。家族や地域のつながりが希薄になる中、周りの人にご迷惑をかけずに死を迎えたいという方が増えているのでしょう。
 先日、遠方にお住まいの方の葬儀を頼まれ、車で少し離れた都市部の葬儀会館によせて頂きました。10年ほど前に行ったきりなので、記憶を頼りに迷いながら到着してみると、見覚えのある大きなホールが現れました。  
 ところが、そこにはどなたもおいでにならず、式場を間違えたのかと事務所を訪ねてみると、道向かいの建物へ案内されました。最近、新館を増設されたようです。
 おかしな喩えですが、その内部は、まるでカラオケボックスのような間取りになっていました。廊下を挟んで左右に、たたみ8畳ほどの独立したスペースがいくつも並び、それぞれの小部屋が葬儀式場だというのです。式場担当者によれば、年々「家族葬」が増え、今は、圧倒的にこの新館を利用者される方が多いというのです。街中のお葬式は今やこんな事になっているのかと驚かされました。ハーモニカの吹き口のごとく並ぶ式場に、何か言いようのない「むなしさ」を覚えたものでした。
 私どものお寺のある街は、まだ昔からの風習も残るところで、そこまでのことはありませんが、それでも「私が死んだら家族葬でしてもらおうと考えています」とおっしゃるお年寄りが増えてきています。
 理由をお尋ねすると、「他人様に迷惑をかけたくないから」と、口をそろえておっしゃいます。ある意味、私にもその気持ちは、よく理解できます。
 この「迷惑をかけたくない」の言葉に、6年前の父の葬儀を思い出しました。
 なぜなら、特別、ご迷惑をおかけする葬式だったからです。滋賀県北部にある実家のお寺は、冬は寒いところで、2月の、父のお葬式の日には大雪が降りました。遠方より参列くださった方々は、交通の乱れにご迷惑をおかけし、そのうえ、悪いことに、式場である、お寺の本堂は工事中で、屋根も無くブルーシート。極寒の中の身震いしながらの進行となり、お手伝いの方々、参列の皆さんに、大変御迷惑をおかけしたことです。今思い出しましても恐縮するばかりです。
 確かに、一人の人間の死とは、随分、他人様に御迷惑をかける出来事のようです。しかし恐縮する想い以上に、父はこんなにもたくさんの方々に支えられ、つながりの中で生きてきたのか、と感動のほうが大きかったようにも思います。
 父の死から改めて思わされたことは、よくよく考えてみれば、私もまた、たくさんの人々、いのちとつながりを持ち、ご迷惑をかけながら生きているということです。ご迷惑どころか、54年間、他のいのちを奪いながら、あるいは、他人の席を奪いながら生きてきた存在だ、ということです。
 そもそも、「迷惑をかけたくない」という前に、迷惑をかけなければ、生きて来れなかった存在としての私に気づかされます。
 親鸞聖人は、そんな、無数のご迷惑の上に成り立ついのちだからこそ、むなしく過ぎるいのちでは、いけないのだと、教えってくださっています。
 私たちの宗派では、お葬式の際、親鸞聖人のおつくりになったうた、和讃の中から、

  『本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の寶海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし』

 というお勤めをいたします。
 阿弥陀様の本願のはたらきに遇うことができたならば、私のもの、と思って私物化して生きてきたいのちが、多くのいのちを内包するいのちと知らされ、むなしく生きることの許されない、かけがえのない、いのちとなっていく、ということではないかと思います。
 古くは、ネアンデルタール人が埋葬を始めたことから「弔う」ということが始まったと言われます。人類が7万年の月日をかけて作り上げた、葬儀の形には、他者の死を通して、いのちを訪ねてきた無数の先達の歩みがあるのです。
 昨今の、小賢しい知恵、分別で小さなスペースに「死」を閉じ込めるようなことこそ、むなしい出来事ではないでしょうか。やはり「死」は決して自分ひとりの出来事では、済まされないことだと思うのです。

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