ラジオ放送「東本願寺の時間」

安本 浩樹(広島県 專光寺)
第一回 踏みかためられた道音声を聞く

 私は中国山地の山あい、雪深い土地に生まれ育ったせいか、なんとなく春という季節に心惹かれます。かつて私が小学生であった冬の日、一晩に大雪が降ると、一年生の私にとっては胸までもある雪、当時は今のように道路の除雪作業も行き届かず、親達は足に雪輪を履き、雪を踏みかためながら小学校までの道のりを歩いてくれるのでした。親のうしろを六年生から一年生へと順に一すじの道を歩いて登校したものです。その時は自分が歩くだけで精一杯でしたが、今にして思うと、大人であろうとも新雪を踏みしめ歩むということは大変な作業であったはずでしょうが、うしろを通学する子ども達のため、親達は自分の大事な仕事として黙々と歩んで下さったのでしょう。どの道も、私に先立って前を歩んだ方がいて下さるということは有難いことです。 
 親鸞聖人がお亡くなりになってから既に750年以上が経過しましたが、その念仏の教えは、私達の先祖先達の方々によって大切に伝えられました。いや、大切なことだから、時代を越えて伝わってきたのかもしれません。今日、よくわけのわからないもの、魅力を感じないもの、自分の得にならないものは、瞬く間に淘汰され、あるものは形を変え、あるものは姿を消していきます。そういう中に一つの教えがいくつもの時代をくぐりぬけ、多くの人々の人生を貫いて伝わってきたのはどういう理由なのでしょうか。おそらくは、いつの世にあっても、どんなに豊かで便利な時代が到来しても、一人の生身の身体をもった人間が、その一生を歩むということが、この上なく厳しいことで、縁によって波のように押し寄せてくる悲しみや苦しみが尽きることがなかった、その生きることの悲しみに寄り添うようにして念仏の教えは伝わってきたのでありましょう。
 慌ただしく過ぎ去ってゆく日々の中でふと立ち止まり、よくよく自分自身の人生に目を凝らしてみますと、外を見ても内を見ても、思い通りにならないこと、報われないことの何と多いことか。みなさんはいかがですか。
 しかしながら、私たちの先を生きて下さった先輩方は、思い通りにならない人生の現場を通して、教えの間違いないことを確かめ確かめ伝えて下さった。
「全ての人があなたを見捨てようとも私はあなたを見捨てない」という仏様の声が、闇に泣く人生に光をあてていく。
 真実の教えは、人間の苦悩の中にこそ静かにはたらいて下さる教えであります。逆に順風満帆、思い通りの日送りの中では確かめようのない教えが、逆境や苦悩を通して明らかにされてゆく。そういう意味で念仏の歴史は同時にまた人間の悲しみと共に歩んできた歴史でもあります。
 建仁元年、西暦1201年、親鸞聖人は京都、吉水。今でいうところの東山あたりに法然上人を訪ねられました。法然上人の口から親鸞聖人の耳に入った念仏の一道は、以来800年をこえて、多くの方々により、確かなものとして私たちのところにまで伝えられてきた道であります。しかも私が踏みはずすことのない様、しっかりと踏みかためられた道。どんなに沢山の悲しみを抱え込み、おおよそ世間的な幸福とはほど遠いところで生きていると思われる方にも開かれた、ゆるぎない道であります。
 この厳しくも険しい現代社会のただ中に生きる私たちは、大切な次の世代を生きる方々に、何を残し、何を差し出すことができるのでしょうか。形あるものや経済的なことも大切かもしれませんが、本当に大切なことは、形のないもの、即ち、苦悩の人生を、念仏の教えに育てられながら確かな道を歩ませていただけば、その歩みこそが、後の世代の方々に願われていることなのでありましょう。
 遅ればせながら、もうすぐ私の在所にも、花だよりの季節が到来します。
 冬の厳しさにかじかんだ時を経て、春を迎える喜びはひとしおであります。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回