ラジオ放送「東本願寺の時間」

安本 浩樹(広島県 專光寺)
第四回 であいが開く人生Ⅱ音声を聞く

 前回から親鸞聖人と法然上人とのであいについてお話ししていますが、人と人とが本当にであうということはなかなか難しいことであります。
 私も父が亡くなって、かれこれ数十年経ちましたが、父と一つ屋根の下に暮らし、毎日顔を合わせてはいましたが本当に出会っていたのかと問われますと、そう言えないものを感じます。それが私もいつしか親となり、お寺の住職となる中で、父は親としてこういうことは嬉しく思ったのではないか。逆にこういう場面では残念に感じたのではないか。住職としても、有難く感じたこと、力無さを思い知らされたことがあったのではないか、と、思いをめぐらす時、不思議と姿なき父にふとであっているように思えるのです。
 或る先生から「出あいの伝統」という言葉を教えられました。真実の出あいが開かれれば、その出あいはまた後の人に繰り返されていく。お釈迦様と阿難尊者とのであいが、念仏の教えのもとに親鸞聖人と法然上人との出あいを開いていく。
 親鸞聖人が晩年お作りになり、今日恩徳讃として親しまれているものに、

  如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし
  『正像末和讃』(真宗聖典505頁)

という、うたがあります。本当に有難い人生とは苦労がない人生ではなくて、大切なことのために汗をかき、身を粉にもし、骨をも砕いていける人生である。言葉を変えて言えば、たった一度の人生の中で、本当に苦労するに値する大切なものが見つかるということであります。苦労したくないと、もがいていた私が、真に苦労のしがいのあることに身を尽くし切っていける。あれもしなくては、これもしなくては、と我を忘れ、うろたえていた私が、本当にせずにはおれないことを、教えに言いあてられ、そのことにあたっていける。そのように我が身を動かすはたらきを持つものが本願念仏の教えであります。この教えにおうてこそ、よろこぶべきことをよろこべる。同時に又、かなしむべきことをかなしめる私に育てられる。親鸞聖人は法然上人を通して「十方衆生よ」と、全ての人々に光のあたる本願のはたらきにであっていかれたのであります。それはこの私の存在をまるごと包みこんでいくようなおおらかさを持つ故郷の大地のようなものであります。

  ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
  (※『一握の砂』1910年・東雲堂書店)

とは石川啄木の歌でありますが、啄木の故郷は岩手県は渋民村。孤独ゆえ、人生の居場所を探し続けた啄木の中には、いつ、どこにいても自分を支えてくれる懐かしきふるさとの山々があった。
 故郷というところは、遠く離れて暮らしていても何かしら目に見えないはたらきがあるように思います。そのはたらきがあるからこそ、悲しい時は悲しみに身をゆだね、苦しい時は苦しみに身をさらしながらも人生を歩んでいくことができる。それは、歩んできた過去も、不確かな未来も、状況によって右往左往する現在も、私の存在をまるごと支えて下さる大地のはたらきであります。
 南無阿弥陀仏という念仏の声は、いつしか、よって立つ大地を見失い、人と関わることが煩わしくなりつつある「現代」に生きる私たちに、人と人とのであいを開き、「あなたの人生を託すことのできる大地はどこにありますか」、と問いかけてくるのであります。
 人間の知恵で、夜は明るくなり、冬は暖かくなり、夏は涼しくはなりましたが、そのことの裏では新たな人間苦がくすぶっています。人間は、便利で豊かな生活と同時に苦しみも生産していくのです。
 この現代という時代にこそ教えに遇うことの大切なることを思わずにはおれません。
 自ら燃え盛る火の中に飛び込んでいくものは虫だけではないのですから。

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