「耳をすませば、世の中の人はみな、ため息をつきながら生きている。」とはおよそ1300年前の言葉ですが、現代においてもまた、多くの人々のうめき声が、人間関係のきしむ音が聞こえてくるようです。
毎日を、堅実に積み重ねて生きてきたつもりが一瞬にしてふりだしに戻ることがありますし、ふとしたはずみで人生に躓くということもあります。なぜにこのように恐ろしい事件が、と思うような驚くべき事件も後を絶ちません。しかしながら、私は、被害者はもちろんの事、加害者も、自分とは紙一重、そう遠くはないところにいるような気がします。親としても子ども達の将来を案ずるのでありますが、親は、いつまでも子どもの傘になってやることもできず、子どもには子どもが背負っていかなければならない境遇があるのでしょう。
なかなか厳しい状況ですが、親鸞聖人という方は、どうしようもない現実の中にこそ本願念仏の教えの大切にはたらいて下さることを教えて下さいました。仏様の光は、「無明の闇」をはたらき場として明るさとなる。「無明の闇」とは明かりのない闇と書きますが、「人間の闇」とは違って、底知れぬ、やるかたなき闇であります。「人間の闇」であれば、例えば事業に失敗をする、病に倒れる、など、辛いことではありますが、事業が持ち直してくれば解決できることでありますし、病気が快方に向かえば晴れてくる闇であります。「無明の闇」というのはもっと私の胸の深いところに根ざしている闇、人間が太刀打ちできない闇であります。その容易には晴れることのないであろう闇を照らされながら歩む道がある。
その「無明の闇」を場として、南無阿弥陀仏のはたらきは、見えないものを照らし、忘れかけていたものをよびさます。なかなか見つからなかった私の本当の居場所を示し、私の真に歩むべき道を教えて下さるのであります。
昨年、地域で行われる健康診断を受けました。少しショックだったことは生まれて初めて身長が低くなった、いや、縮んだ事です。なるべく高くと思って背筋を伸ばすのですが、その気持ちを見透かすかのように上からぎゅっと押さえられてしまいました。わずか数ミリのことではありますが、その数ミリの身の丈にこだわっていくのです。「身体」は正直に年齢を重ねていくのですが、「思い」が受け入れられないのです。私は、故郷のお寺に帰ってもう30年近くなりますが、それぞれに厳しいしのぎの中で生活しておられる方々との交わりの中で、うなづかされることがあります。それは、教えが至り届くということは「頭で」わかる、わからない、ということよりも、「身に」、間に合うか合わぬか、ということであります。
言葉にしても、身に響いていくということがある。言葉には体温というものがあって、体温をもつ言葉は必ず相手に響いていくのだとお聞きしたことがあります。温もりをもつ言葉には命の息吹きがあって、いつしか頑なになってしまった心に、時を越え、ところを越えて届いていく。「念仏を申せ」との親鸞聖人のお言葉は、今もなお、人生の歩みに立ちすくむ現代人に方向をあたえて下さる。生きとし生きる全ての人々の心の底を通じ、耳の底にとどまっていく。闇を抱きながら歩む方の、胸の奥深いところにある願いをよびさまし、その方を揺り動かしていくのです。
親鸞聖人のご命日の法要である報恩講が、あるお寺でつとめられたおり、仏教のお話をしに伺いました。そのとき私の部屋を訪ね、ご自身の胸に手を当てられ
「ここを揺さぶって頂きませんとね。」
と言われた方の言葉が忘れられません。
風にふれれば草が動くように、仏法にふれれば人は動くのであります。
「耳に心地よい言葉」を聞く者から、「真実の言葉」を聞く者へと方向が変わるのであります。
「私は私に生まれさせて頂いて本当によかった」
と、腹の底からいえるような人生を歩もうと、現代に生きる私たちは、親鸞聖人の教えのもとに、歩み始めるのであります。