ラジオ放送「東本願寺の時間」

二階堂 行壽(東京都 專福寺)
第一回 真のよりどころを求めて音声を聞く

 2011年の親鸞聖人の750回御遠忌にあたって東本願寺から出されたテーマ「今、いのちがあなたを生きている」というメッセージに、わたしの所属する真宗大谷派の東京教区では「真のよりどころを求めて」という言葉を添えて、親鸞聖人のご法事を営むテーマといたしました。
 この「真のよりどころ」とは、真は真実の真、まこと、本当のよりどころということですが、人間にとって、そして私にとっての本当のよりどころとは何かという問題です。
 話は少し変わりますが、現在では、「真宗」や「浄土真宗」というと、宗派を示すことばに受け取られています。浄土宗や天台宗、禅宗など、仏教に様々な宗派がありますが、その宗派名を示すものとして考えられています。京都・東本願寺の宗派は、真宗大谷派です。これは現在、一般的に使われる意味として間違いはありません。
 しかし、親鸞聖人は、ご自分の著作やお手紙の中で「浄土真宗」という言葉をお使いになられるときは、宗派を示す言葉ではなく、親鸞聖人が出遇われた仏道を示されます。具体的には、ご自分の先生である法然上人から教えられた「ただ念仏」、「念仏ひとつで救われる」という教えを「浄土真宗」とよばれ、またそれは大乗仏教の大きな流れの中において、「大乗仏教の中のもっとも大乗仏教の精神にかなうもの」と受け取られています。
 もう少し戻っていいますと、「宗教」「宗派」の「宗」の字は、「むね」という字ですが、「よりどころ」という意味です。ですから「宗教」という言葉は、「よりどころとする教え」という意味になります。私にとってのよりどころとなる事柄を示すのが「宗教」といっていいかと思います。
 「真のよりどころ」という言葉は、「真宗」という言葉を言い換えたものですが、「浄土真宗」という言葉は、「浄土」を「真実」「まこと」の「よりどころ」とする、という意味になります。
 人間は「よりどころ」を求めます。いや、その時々で、そのよりどころが変わっていくことはありはしても、よりどころを持たない人はいません。ある時はお金であったり、あるときは能力、地位であったり、またあるときは健康であったり、友人であったり、家族であったり…。
 しかし、悲しいことに、そのどれもが、永遠に確かなものではないことを、人生の経験とともに、また人生の悲しみとともに感じてもいます。だからこそ、その「よりどころ」に「まこと」「確かなこと」を求めたいと思うのが人間でもあります。
 そしてこの「真の」ということも、あるものとあるものを比べてどちらが、ということではなく、すべてのいのち、人生そのものを、根底から支えるよりどころということでしょう。
 親鸞聖人が出遇われた浄土真宗は、直接的には師・法然上人からの「浄土を真のよりどころとして生きなさい」という呼びかけとして受け取られました。そしてそれは同時に、「あなたは、いま何をよりどころとして生きていますか」という問いかけとして、そして「そのよりどころは、確かなものですか」という問いかけとして聞いていかれたのでしょう。そして、その呼びかけをどこまでも民衆とともに聞きつづけながら、生涯歩まれていた方のように思うのです。
 そして、それは、いま同じように、私たちに対しても、「あなたは、なにを、よりどころとして生きていますか」と、そして、「それは、確かなものですか?」と、いつも呼びかけられているように思うのです。
 そしてその問いかけが、2011年3月11日、東日本大震災という形をとって、あらためて、一人ひとりに、大きな課題として投げかけられたように思うのです。

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