ラジオ放送「東本願寺の時間」

二階堂 行壽(東京都 專福寺)
第四回 真のよりどころを求めて音声を聞く

 「生活に役立たぬような宗教はだめだという。生活とは何ぞや。」以前、真宗大谷派の金子大栄という先生の言葉としてお聞きした言葉です。役に立つか役に立たないか、それが私たちの生きる基準になっているのが現代です。ですから宗教さえも、その考えの中に入れられます。現代では、お寺も金額で選ばれるようになってきているようです。ですから、役に立たないような宗教・お寺はダメだということになるのでしょう。しかし、金子先生は、役に立つか立たないかを問題にはせずに、「生活とは何ぞや」と、「生活」の方を問題にされます。
 「生」も「活」も、「いきる」という意味ですが、生の対義語は、「死」です。そして活の対義語は、「殺」、殺すです。生と死、活と殺。活は、サンズイに舌と書き、舌を潤すという意味です。私たちの喉の渇き、生存の欲求を表すものです。しかし、私たちが活きるということの裏には、殺、他の生き物を殺しているということがあります。動物の世界では当然、このことの中に生きており、人間もそれをまぬがれません。魚やお米の命を奪って、今ここに私が生きているのです。 
 しかし人間は、もう一つ、「生」と「死」を抱えています。人間は、といいましたが、動物には生と死はないと言われます。仏教では、この生と死、生死(せいし)を、生死(しょうじ)とよび、迷いや苦悩を表わすものとします。動物も生まれ生きそして命を終えますが、私の生はこれでよかったのかとか、これから一体どうなるのかとか、その生き方に悩むということはないのでしょう。
 もうずいぶん前になりますが、母親が肝臓移植の必要な病を抱え、娘が移植の適合となった家族の苦悩を伝える報道がありました。娘の決断で、娘から母へと移植が行われました。移植は成功したものの、残念ながら術後の経過が悪く亡くなられてしましました。
 それにふれて、生死(しょうじ)ということを、あらためて考えさせられました。ここから先のことは、そこでは取り上げられませんでしたが、十分にインフォームド・コンセントがなされ、家族で決断を出したとはいえ、亡くなられてしまうと、移植を選ばなければよかったという思いも湧いてくる場合もありましょう。また、成功したとしても、娘の体の傷の事を考えると、母も娘もこれを背負って生きなければなりません。つまり、移植を選んでも、選ばなくても、また成功したとしても、しなかったとしても、どちらを選んでも、悲しいことに苦悩を受けなければならないということです。辛いことです。生きてあることの喜びは大きいものでありますが、しかしこの苦悩を受け止めて生きていく辛さもまた大変なことです。これほどの大きな決断を誰もが抱えているわけではありませんが、しかしこのような生死の苦悩は人間だけが抱えるものです。
 真宗大谷派の宮城 顗という先生が「不安は、いのちそのものが、たしかなものを求めている、うめき」と言われました。苦悩は、不安がより具体的に重くのしかかったものですが、どちらを選んでもこの苦悩を抱えていかなければならない、その中に私たちの「いのち」「生きている」ということがあります。
 東日本大震災でも、ぎりぎりの状況での決断がなされてきたでしょうし、今もなお決断を迫られるただ中におられる方もいます。やっとの思いで命をつなぎ得たとしても、それぞれの抱える苦悩は深いものがありましょう。しかし、その「うめき」こそが、私たち人間が生きるということの抱える悲しい事実を教えてくれているように思うのです。
 真のよりどころとは、その「うめき」が決して他人のうめきではないことに呼び覚まされる、その「うめき」への気づきだと思うのです。

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