「真のよりどころを求めて」ということを頭に思い浮かべながらお話をさせていただきます。
先週は、親鸞聖人が出遇われた「浄土真宗」という仏道、仏の教えの道とは、単に「宗派」を示すだけのものではなく、親鸞聖人の先生である法然上人から教えられた「浄土を真のよりどころとせよ」という呼びかけの言葉であり、それは同時に、私たち一人ひとりが求めているよりどころ、それが真(ほんとう)の事柄なのかという問いかけでもあるというお話をいたしました。
もう、ずいぶん前のことになりますが、私どもの寺に縁のある方が言われました。「考えてみれば、当たり前のことだけれど、ずいぶんと勘違いしていました」と。その方は、ある大きな会社で、地位の高いポストについていたようでした。会社では、毎日毎日次から次へと、「ぜひ会ってもらいたい」という面会希望の方が来られ、その人に会うだけでも大変だったようです。地位もありましたし、人がたくさん寄ってくるし、自分の人生もまんざらではないと思っていたようです。そして、大過なく、めでたく退職となられました。
しかし、その方が言われたように、「当たり前」のことなのですが、退職した翌日からは、面会希望の人はその人の立場を継いだ後輩のところへ行きます。忙しさからは解放されましたが、自分のところへは全く人が来ないようになると、何か自分が情けなくなったと言われました。しかし考えてみれば、この「わたし」に会いにきていたのではなかったのです。この私についているもの、「地位」や「扱うことのできるお金」に会いに、頭を下げにきていただけで、この「わたし」ではないことを、あらためて知らされたと言っていました。
「地位」や「お金」だけではありません。健康に自信のある方がおられました。その方は、健康が自慢でした。その方があるとき、病にかかられました。健康であることを競っていたような仲間たちは、その人のことを気遣ってか、ほとんど会いには来られなくなったそうです。そんなことを言うともなしに、ぼそっと言ったとき、お連れ合いから「ちょっと病気しただけなのにねぇ」と言われて、はっとしたそうです。自分もまた、健康である自分を自分と思い、病気になった自分はもう自分としては考えてもみなかった、と。「健康なのが自分と思っていましたが、健康が取れてしまっても、自分は自分なんですよねぇ」と。
私たちが、自分といっているものは、何なのでしょう。自分、自分と言っているこの自分が、一番自分のことを分かっていないのかもしれません。
『観無量寿経』というお経の中で、息子から反逆を受けた母であるイダイケという王妃に向かって、お釈迦さまは「汝是凡夫」(にょぜぼんぶ・あなたは、まぎれもなく凡夫、ただの悩める普通の人です)と言われます。王妃という自分についている地位や立場、能力、そして、こうあるはず、こうあるべきという自分の思い描いた姿を自分と思っているけれど、しかし、本当は、そのあるはずの理想と現実の狭間で揺れ動き、苦しんだり悩んだりしている中にあるのが、あなたそのものなのです、と語りかけます。
私たちは、自分のあるべき姿を、自分自身で、また世間からも造り上げられ、それを自分と思い込んで生きているのだと。そしてその「思い」があなたを苦しめているのでしょう、と。
私も、あるときは住職、あるときは父親、あるときは夫、などなど、…。その立場、その立場で生きていますし、またそれでその場を生きて行かなければならないものも抱えています。しかし、悩みを抱えて生きていることに、人間そのものがあると教えられるとき、その悩みを縁として自分に出遇う道が開かれてくるといわれます。
真のよりどころとは、ありのままの自分の姿に目が開かれ、その私にうなずける眼をいただくことだと思うのです。