ラジオ放送「東本願寺の時間」

二階堂 行壽(東京都 專福寺)
第五回 真のよりどころを求めて音声を聞く

 もう随分前のように思いますが、「尊い」という言葉を耳にしなくなったなぁと先輩が言っていたことがありました。確かに、「尊い」という言葉はあまり聞きません。「尊い命」とは言いますが、何か実感をともなっていないような響きをもって聞こえてくることもあり、空しさを感じます。
 先日、新聞を読んでいて、はっといたしました。社会面の小さな記事です。「○○線で人身事故、ダイヤ乱れ 何万人に影響」というものです。悲しいことに東京では、たびたび人身事故が起き、このような記事を目にすることは日常的で、気にかけて読むこともほとんどありませんでした。しかし、そのときに限って、淡々と書かれた小見出しに、驚いたのでした。どのような事情があるにしても、ひとりの方の命が失われたのです。しかしそんなことはお構いなしに、何分遅れるのか、何人に影響があったのか、ただそれだけについての記事で、「尊い」などとはかけ離れた内容でした。そういう私も、あるお寺のお話にうかがう時、やはり人身事故のために電車が止まり、間に合うかひやひやイライラしているだけで、自分の都合にしか目がいきません。そんなところで現実の私は生きているのです。
 話は変わりますが、葬儀のとき、亡き方との最後のお別れに立ち会っていると、いろいろな言葉が聞かれます。しかし、もし一言だけと言われたら、どうでしょう、どんな言葉をかけるのでしょうか。きっと多くの方は、「ありがとう」という気持ちがその底にある言葉を言われているのではないかと感じます。そんなことを思いながら考えたことがありました。それは逆に亡くなっていかれた方は、最後にどのようなお気持ちの言葉を残していかれたのだろうと。しかしこれはもうお聞きすることはできません。でも私は、最後に、南無阿弥陀仏と申されて亡くなって往かれたと受け止めたいと思っています。
 その生涯ではいろいろなことに会われたに違いありません。喜びにもたくさんお会いになられたでしょうが、きっとその一方で悲しい辛い思いも重ねてこられたことでしょう。最後を迎えられるときも、なかには本当に突然、自分の思いとは全く裏腹なことの中でいのちを終えていかなければならなかった方もありましょう。しかしきっと亡くなられる方も最後は、ありがとうと言って亡くなっていかれたのではないかと思いたいのです。
 私たちの日常の思いは、損得や好き嫌い、自分の都合に合っているか、合っていないかです。その思いから離れることはありません。24時間365日、自分の思いに少しでも添うようにと生きています。それから離れることはできません。みなそれで一所懸命努力をして生きています。けれど、どれほど、権力があり能力があり財力があろうとも、また愛情が深かろうとも、相手の方に先立たれてしまうか、自分が先立つか分からないけれども、別れなければならないということだけは、悲しいけれど事実として起こってきます。そしてまた一方で、オギャと生まれてから死ぬまで、自分の思い通りにだけ生きられることなどないことも知っています。
 しかしそのとき、辛いこともあったし悲しいことにも会ったけれど、けれども、この世に生を受けて、あなたに会えてよかったという思いが、本当は心の奥深いところに動いているのではないか、と思いたいのです。
 でもその心は、人間の思いからは出てきません。人間の日常の思いを超えた「南無」のこころです。わたしという全存在を受け止めるこころ。そのこころを、お釈迦さまが誕生されたときの言葉、「天上天下唯我独尊」、すべてのいのちは他と比べることなく尊い存在としてある、と表現されたのでしょう。
 真のよりどころとは、この私の都合を超えた、「南無」のこころに出遇うということだと思うのです。

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