2011年3月24日、私は富山県の南砺市が派遣した南相馬緊急支援隊8名の副隊長として南相馬市をめざしていました。飯舘村に入るとまったく無人の村と化していました。私たちは防護服その他必要と思われるあらゆる資材を市から提供されていましたが、線量計だけは持っていませんでした。当時そのようなものを常備している自治体も企業もありませんでした。もし線量を計っていれば飯舘村横断を断念して引き返したかもしれません。あとで南砺市に帰って保健所で検査すると、隊員ぜんぶに若干の被ばくが見つかりました。飯舘村の中を走る車は私たちの3台だけ、次第に心細くなりました。いきなり防護服に身を固めた警官が数人飛び出して車を制止したときは、のどから心臓が飛び出るほどびっくりしました。私たちが支援のため南相馬を目指していることを告げると、警官たちは最敬礼してくれました。他の自治体から南相馬に入る最初の支援チームだったからです。南相馬に入ると路上に住民の姿はなく、道を走っているのはほとんど大半が自衛隊車輛、あとは警察・消防・役場関係の車ばかりでした。これが「屋内退避」の光景でした。
南相馬市役所では驚きと感謝で迎えられ、市長室で歓迎を受けました。同い年の桜井勝延市長とはこの時深い友情ができ、その後も付き合いが続いています。隊員たちは鹿島区の津波被災現場を案内されたあと、それぞれの持ち場につき、私は遺体安置所での読経を頼まれました。津波で亡くなった方々の遺体は水中で瓦礫に打たれ、見るも気の毒な状態でした。放射性降下物を懸念して屋内退避の指示が下りている中、マスクをした男性が小さな女の子をつれて安置所にやってきました。父親はある遺体をのぞき込み、「これ、お母ちゃんだと思う?」と声をかけると、「どうかな」と言って女の子は首をかしげました。無感情に見える二人のやりとりが果てしない悲しみを現していました。
「こんなところで僧侶の衣を着ていて、自分に何ができるだろう」という疑問がふつふつと胸中に湧き上がってきました。親鸞聖人は59歳の時、寛喜三年、1231年の大飢饉を関東で経験しておられます。「人口の3分の1が失われた」と藤原定家が歎いたこの大災害では、飢餓に加えて伝染病が猛威をふるいました。それはおそらく新型のインフルエンザで、罹患してから4日目が命の分かれ目でした。妻の恵信尼が書きのこした文章によりますと、この年四月、聖人は風邪のような症状をうったえると、看病の人を部屋に近づけず、音もたてずに寝込んでおられましたが、心配した恵信尼が部屋に入ってお体を触ると火のように熱く、ただ事ではありませんでした。
さて寝込まれてから4日目の明け方、聖人は「今はさてあらん」とつぶやかれました。「うわ言ですか」と恵信尼がたずねると、「うわ言ではない、寝込んで2日目から『浄土三部経』が夢の中に出てきてしかたがなかった。よくよく考えれば、17、8年ほど前、人々を救おうとして『三部経』を千回読もうとした事があった。その時のとらわれがまだ残っていたのだ」と聖人は答えられました。おそらく聖人は周囲の人達が飢えと病でどんどん命を失うのを見て、宗教者として、自分に何ができるかと思われたに違いありません。ところが現実は人々に手を差し伸べるどころか、自分が伝染病にかかって生命の危機を迎え、妻や子供を守ることもできず、あげくのはて夢の中でおまじないをしているだけだったのです。「今はさてあらん」とは「ああ、そういうことだったのか」といった意味だろうと思います。「おのれの無力がわからないと他力はわからない」と先輩方によく言われてきましたが、親鸞聖人はこの絶望を機に大きく内面が開け、熱が下がると親鸞聖人が生涯をかけて著された本、『教行信証』の中でも重要な「信巻」という部分の執筆に取りかかられました。しかし、南相馬の避難所での私にはそんな飛躍もなく、ひたすら、親鸞聖人が作られた詩である『正信偈』をあげるほかありませんでした。