ラジオ放送「東本願寺の時間」

太田 浩史(富山県 大福寺)
第四回 真宗と災害音声を聞く

 前回親鸞聖人が寛喜三年、1231年の大飢饉と疫病流行において危うく命を落としそうになられたお話をしましたが、聖人が9歳で出家された背景には1181年の養和の飢饉の影響が考えられますし、聖人二百回忌の年は寛正の大飢饉で京都だけでも数万人の犠牲者が出ました。御遠忌をつとめた真宗の中興者蓮如上人はどんな気持ちではじめての御文を書かれたのでしょうか。御文は仏法のかなめを記した御手紙で、その後の真宗の発展に大きなはたらきをしました。東日本大震災が起こった年は親鸞聖人七百五十回御遠忌の年でしたから、真宗の歴史は災害とともにあるといっても過言ではありません。東本願寺を開かれた教如上人も1596年の慶長伏見地震で被災しておられます。本願寺の建物は倒壊し、寺内町だけでも300人の犠牲者が出る中、上人は境内の廃墟に仮設住宅をこしらえて住まれました。東本願寺が落成した慶長五年、1605年には親鸞聖人をしのぶ報恩講を終えて間もなく慶長東海・南海巨大地震が発生し、阿波国で報告されている30メートルの大津波をはじめ、関東から九州南部にかけて沿岸部で甚大な津波被害をうけました。
 このような災害のたびごとに真宗門徒が力強く復興できたのは、親鸞聖人いらい災害をたんなる損失に終わらせず、これを法難として受け止める伝統があったからです。法難とは災難を逆縁として仏法興隆につなげるという姿勢から生み出された信仰の言葉です。波乱の生涯を送られた教如上人などは「法難なくして興隆仏法はありえない」と言い切っておられます。こうした法難観は何といっても親鸞聖人にはじまります。親鸞聖人の法難といえばまず35歳の時の承元の法難が思い浮かびますが、私はむしろ寛喜三年の大飢饉が聖人の法難観の確立にもっとも大きな影響を与えたと考えています。それは絶望的な状況で、徹底的におのれの無力を知ることでした。
 しかしそれは被災者を前にして何もしないということではありません。私は『口伝鈔』という文献の「聖人が翌年鎌倉に赴いて一切経の校合に携わられた」という記述に関心をもっています。校合とは校正のことです。当時鎌倉幕府では執権北条泰時が大飢饉の際にも遊び暮らして何もしない京都の朝廷に失望して、幕府が復興の中心に立つとの決意を表明しました。そしてその第一歩として、古代以来の律令に替って実際の役に立つ御成敗式目の編纂を進めたのです。この新しい法律は五十一箇条からなっており、その数は聖徳太子の精神を受け継ぐという意味で憲法十七条に3をかけたものでした。憲法十七条の第一条は「和を以て貴しと為し、忤うることなきを宗とせよ」(平和を尊重し、争わないことを人生の目的とせよ)で、第二条は「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧これなり」です。太子は真の「和」の世界、争いの無い世界を実現するには、真実の仏法によらなければならないというのです。そこで北条泰時は御成敗式目の制定と同時に一切経を書写することとし、親鸞聖人にその校正の指導を依頼したのでした。
 『口伝鈔』はこの時の面白いエピソードを紹介しています。ある日幕府の酒宴に一切経校合の僧侶が招かれた際、料理に魚が出ました。この時ほかの僧侶たちは袈裟をはずして箸をつけたのに対して、親鸞聖人だけは袈裟をつけたまま魚を食しました。その席に9歳の開寿殿という少年がいて、後に名執権北条時頼となる人物ですが、親鸞聖人の席にやってきて「あなただけはなぜ袈裟をはずさないのですか」と尋ねました。聖人は「こんな御馳走ははじめてなので、あわててはずすのを忘れたのです」と答えましたが、開寿殿は「あなたは子供だと思ってあなどっている。私は真実が知りたいのです」とつめよります。そこでやむなく聖人は「なんとかこの生き物を成仏させてやりたいが、私にはそのための智慧も徳もありません。だが袈裟にこそ徳があるので、その力で救いたいのです」と答えると、聡明な開寿殿はとても喜んだという話です。「世の中の指導者になるような人物は、幼い頃より資質をあらわすものだ」と後に親鸞聖人は誉めておられます。それは開寿殿が袈裟を阿弥陀如来として受け取ったからでしょう。無力な凡夫と絶対他力の関係が、この話に見事に表現されているではありませんか。

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