ラジオ放送「東本願寺の時間」

太田 浩史(富山県 大福寺)
第六回 無力と他力音声を聞く

 2011年3月24日、私たち9人の支援チームは富山県の南砺市から派遣されて南相馬市に入りました。私たちを苦しめている問題は二つありました。一つは放射性物質がどれくらい降っていて、それが私たちの健康にとって危険なのかどうなのかという問題です。線量計のない私たちにはわかりようのないことでした。当時線量計は南相馬市の職員も持っていませんでした。そしてもう一つはすでに水素爆発を起こしている4基の原発が今後どうなるのかという問題です。当時私たちは原子炉がメルトダウンをおこし放射性物質も放出されていることなんか知らないで、やがて燃料棒が溶けて水蒸気爆発を起し、格納容器が吹っ飛んで空から溶けた核燃料が粉になって降ってくるというような悪夢をいだいていました。それは現地に残っている市民の方々も同じで、その時は車で一目散に逃げられるところまで逃げるということを口にしておられました。ところがそのためのガソリンがほとんど無かったのです。ガソリンの一滴はまさに命の一滴でした。私たちは相馬市の正西寺というお寺の駐車場に張ったテントに戻ると、氷点下にもかかわらず頭から水をかぶりました。放射性セシウムが髪の毛に付着しているような気がしたからです。
 翌朝、私たちのテントに次々と来訪客がおとずれました。聞いてみると200年前に私たちの北陸から移民した人の子孫でした。みなさん自分の先祖の故郷のことを教えてほしいとせがみました。私は感動しました。私が危険を冒してここに来たのはこの瞬間のためだったからです。
 とつぜんテレビのニュースで枝野官房長官の声明が発表されました。「これまで30キロ圏内の皆様に屋内退避ということをお願いしておりましたが、只今より自主避難に切り替えさせていただきます。なお今後放射線量の増加いかんによっては避難指示ということもあり得ます。避難に際しては雨の日は極力避けるようご注意をお願いします…」。その時はどしゃ降りの雨で水がテントの中に侵入していました。私たちは耳を疑いました。「自主避難ってどういう意味?」、「勝手に逃げろということ?」、「今後放射線量が増加するということは、いよいよ爆発?」、疑心暗鬼は疑心暗鬼を呼び、ついに私はパニック状態に陥ってしまいました。
 最年長の私にはチームに撤退命令を出す権限が与えられていました。私は南砺市長に電話し、「ヤバそうだから撤退したい」と申し出ました。「昨日入ったばかりじゃないか、もう少し何とかならないか」、「ダメだ、原発の様子がわからない限り撤退だ」、「わかった」そんなやりとりをしたあと、若い隊員に向かって「オイ、3台の車はどうした、すぐにここへ集めろ」と指示すると、「無理です、南相馬市役所で使ってます」と言うのです。私は完全に平静を失って、「何やってんだお前ら、ここはもうすぐパニックになるぞ。地域の人達に車を奪われたらどうするんだ。オレたちは放射能の下を歩いて逃げろというのか」と私はわめき散らしました。
 つい一時間前まで私の心は南相馬市の人たちへの思いやりでいっぱいでした。それが今は「車を奪われたらどうする」と大声でわめいているのです。ついさっきまでは福島県の人々に対する風評差別を怒り軽蔑していた私が、その人達を見捨てて一刻も早く逃げ出そうと心底思っているのです。東京まで逃げた私は放射能を洗い流そうとして4時間もバスルームから出てこなかったそうです。原発はその後爆発せず、チーム撤退の翌日、ただちに新しい要員とともに田中幹夫南砺市長が南相馬入りして面目を繋ぎました。
 今回の私のお話は懺悔ばかりに終わってしまいました。でもその後私は34回南相馬に通い続けています。それは自分自身に対する恥ずかしさと無力感の中で見た、あの明るく浄らかな空気がまぎれもなく阿弥陀如来の光であったと確信するからです。そういう意味で、被災地は学びの場であり、まさに道場なのかもしれません。

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