今朝は「教え」ということについてお話しさせていただきます。多くの日本人は自分が無宗教であると主張します。しかし、それらの人々は宗教をしっかりわかった上で無宗教と言っているのかは疑わしいものです。その証拠に日本人の多くは初詣、クリスマス、お盆と様々な宗教行事に参加します。宗教そのものを厳密に定義することは難しいのですが、単純に宗教という言葉を考えるならば教えを宗にして生きることだといえます。教えを宗にすることは、宗教に関する教義を拠り所として、覚えたり、学習したりするようなイメージを持ちます。このような学習は大切なことなのですが、お釈迦様の教えを学ぶ場合、このような面だけではないと考えられます。
例えば、地図を見ることと、その場所を歩くことには違いがあります。地図は目的地やそれまでの道のりを一気に見ることができます。しかし、実際に目的地まで歩くことがなければ地図としての役割は果たせません。地図を見て、自分がいる現在地を確認し、次に目的地を探し、道順を考え、実際に歩くことで両者は成り立ちます。このことは、お釈迦様の教えも同じで、いくらお釈迦様の教えを覚えたとしても、人生の中で活かすことがなければ学びにはなりません。まず自分が今立っている位置を教えによって確認し、どのように生きていくかという手掛かりをいただくことが大切なのではないでしょうか。
また仏教では、お釈迦様の教えを鏡にして自分の内側を見つめることが説かれます。私たちは日頃、鏡を見ますが、その鏡に映る自分の姿を見て、どのようなことを思い、行動しているでしょうか。髪の毛の乱れを直したり、顔の汚れを洗ったり、女性の方はお化粧をしたりと、鏡に映し出される自分の姿を見て、違う自分になろうとしているのかもしれません。お釈迦様の教えを鏡にすることは、教えを通して本当の自分の姿に目覚めるということです。自分はこのような性格だとわかったつもりでいますが、教えを鏡にして見ると全く正反対の性格が映っている可能性もあります。また自分の嫌な性格や思い出は極力見ようとせず、ごまかしてしまうものです。このような自分が見たくないところもお釈迦様の教えは映し出し、私たちに真実を目覚めさせるのです。そこに教えが鏡であることの意義があります。
私の先輩は、仏教を学ぶことを高速道路のパーキングエリアに例えて説明していらっしゃいました。高速道路は一般道で行くより速いスピードで目的地に着くことができます。これは現代の私たちの生活とよく似ています。日々の生活に追われ、毎日が時間との戦いで、ギアをトップにし、フルスピードで進んでいます。しかし、このような生活を続けていくと、当然身体は疲労し、時には道を間違って、異なった所に行ってしまうかもしれません。このようなことがないように高速道路にはパーキングエリアがあり、目的地によりよく行けるため、身体を休め、心を整え、現在地を確認できるのです。お釈迦様の教えに出会う場所の一つがお寺であります。お寺とは元々、サンスクリット語でビハーラといい、これは休養を意味しています。忙しく、目的がわからずさまよっている現代人にとって、お寺というパーキングエリアで休養し、心を整えることは大切なことであります。また、お寺で教えを聞くことは、自分の今立っている地点が確認でき、目的に向かってよりよく生きていくことができます。お釈迦様の教えは、自分の知識のために単に覚えたりするものではなく、自分の姿を映し出し、人生をよりよくしていくものであることを、今朝はお話しさせていただきました。