ラジオ放送「東本願寺の時間」

平原 晃宗(京都府 正蓮寺)
第二回 「行い」について音声を聞く

 おはようございます。今朝は「修行」の「行」、つまり「行い」ということについてお話させていただきます。近頃は何かと「厳しさ」よりも「優しさ」が求められる時代になっております。20代女性の男性に求める第一の条件が「優しい人」であり、同様に理想の先生や上司も「優しい人」という意見が多く、何かと「優しさ」が条件にされているように思えます。しかし、自分の言うことを何でもかなえてくれる都合のいいことを「優しさ」と言っているようにも感じられます。
 仏教には「大悲」という言葉があります。「大悲」という文字は、「大きい」の大と「悲しい」の悲から成り立っています。これは仏様の行い、つまり仏様のはたらきを意味するのですが、漢字の構成を見ると仏様が私たち人間の行為や存在を哀れんで、大いに悲しまれているようなイメージを持ちます。しかし、この漢字の意味を考えますと「大」は仏様のはたらきそのものを意味し、悲しいという字は「非売品」の「非」と、「心」という字からできています。心は私たちの精神活動の中心であり、言い換えれば、自分を中心にして物事を見ている根本と言えるでしょう。その心を中心にしていることを、「非ず」と否定してくるのが大悲のはたらきなのです。つまり、自分を中心に考えてしまうことを目覚めさせ、周りをしっかり見て生きることを促すはたらきとも言えます。近頃は「優しさ」が求められると言いましたが、優しいという字は「人」と「憂う」という字からできています。人は他人のことを心から悲しむことはできず、どこまでも憂うことぐらいしかできません。現代人は自分を中心に考えてしまう本当の姿を見ることよりも、優しさによって癒しを感じることを求めているのではないでしょうか。
 以前あるお寺でお話をした時に、そのお寺を預かっている方が私にその地域が抱えている過疎などの問題をお話しされました。私はそのお話をしっかり聞いていたつもりだったのですが、「本当に私の話を真剣に聞いていますか」と問われました。私は真剣に聞いていましたので、そのことを伝えたのですが、その方は「もし真剣に聞いていたならば、このような応答にはならない」と言い返されました。そこで私は「地域の問題なので、よくわからないところもあります」と自分の非を認めました。しかし、その方は「わからないのは当然であって、あなたと一緒に問題を共有したかったのです」と最後におっしゃいました。その時私は、自分が優しい人と見られたいために、聞いているふりをし、時間を過ぎることだけを考えていたのではないかと思いました。確かに自分はその問題を憂うことぐらいしかできず、その方と問題を共有することなどとてもできないのです。仏様の大悲は人間を上から見て憂いていたり、いたずらに優しさを与え、問題をごまかしていたりするのではありません。人間が自分を中心に物事を考え、真実に目を向けることに背いていても常に大悲のはたらきによって喚びかけているのです。
 私が子どものころ、隠れていたずらをした時に「いたずらを隠したとしても、仏様は見ています」という言葉で戒められたことがあります。子どものころは、その意味がよくわからなかったのですが、今になってみると自分にとって都合の悪いことをいくら隠そうとしても、本当のことは自分が一番よく知っており、本当のことは変わらないことを教えられたのではないかと思います。仏様の大悲は自分を中心にしている姿を明らかにし、そのことが問い続けて生きていくことを願われています。この大悲に目覚め、自らの「行い」を問い続けることが私たちにとって大切なことではないでしょうか。

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