ラジオ放送「東本願寺の時間」

平原 晃宗(京都府 正蓮寺)
第四回 「御利益」について音声を聞く

 おはようございます。今朝は「御利益」ということについてお話しさせていただきます。多くの人々は宗教に「御利益」を期待されます。「どこそこの神社はこういう御利益があるそうだ」という声はよく耳にします。この御利益とは一体どのような内容を示しているのでしょうか。例えば、合格祈願、家内安全、無病息災、商売繁盛など自分にとって得になることが御利益の代表的なものであり、これらは結果がよくなることをお願いしていることになります。しかし、親鸞聖人が明らかにされた御利益は結果の「果」を期待する御利益ではなく、原因の「因」をいただく御利益だと思われます。
 親鸞聖人は「恩」という言葉を大切にされました。「恩」という字は、原因の「因」の下に「心」という文字からできております。つまり自らを成り立たせる因を心の上にいただくことであって、自分が今ここにいる原因を心にいただくことを意味しています。「果」を求めたり、期待したりすることは、もうすでに出来上がった幸せをもらうことになります。しかし、ここで示す「因」をいただく御利益は、自分が今ここにいる因を知ることによって感じる幸せではないでしょうか。
 例えば、私たちはおいしいものを食べることに幸せを感じます。そのため外食をしたり、たまには高級な食材を使った料理を作ることもあるでしょう。このことが「果」を求める御利益になります。しかし、例えコックさんが作るようなおいしい料理でなくても、その食事を作る子どもや孫、友だちなどが、自分のためを思って苦労していることやその願いを知ることで感動したり、幸せを感じたりします。このことが食事をつくる「因」を知った御利益と言えるのです。また「果」を期待する御利益は「因」を知った御利益とは違い、すぐに忘れてしまいます。
 先日、靴を買いに行った時のことです。私の足は男性にしてはサイズが小さいので、種類が少なく、なかなか手頃な値段で買える靴が見つかりません。何軒も靴屋さんを回ったあげく、ようやくお気に入りの靴を見つけることができました。その時の手に入ったうれしさは大きいものの、二、三日するとその喜びは薄れ、当たり前のようになってきます。つまり結果しか求めていないものが手に入ったとしても喜びは一瞬のことで、徐々に冷めていきます。しかし、因をいただく御利益はどうでしょうか。
 以前、子どもたちが休みの日に僕へのプレゼントとしてクッキーを作ってくれました。お店で売っているような味ではないのですが、作り上げるまでの工程や苦労などを聞くと、よくやったなと感心しました。初めての経験だったので、行き詰ったりしたこともあったのですが、私を喜ばせようとして様々な苦労をしたことを思うと、有難い気持ちで食べさせてもらいました。このことはおいしいという結果はなくても、おいしいと言って欲しいという願いである因が明らかになればいつまでも忘れることはないと思われます。
 私たちは「果」という自分にないものを宗教に求め、今ここに自分がいる原因となるものや、自分のことを願っている存在になかなか目を向けようといたしません。自分の都合を求めたり、欲を満たそうとしたりすることは、一瞬の幸せを感じられるものなのですが、そのことは、きりがなくどこまでも続いていくことになります。宗教は自分自身の生活や生き方をしっかりと確認していくものです。このことを実行していくことが因をいただく御利益ということに繋がっていくのでしょう。何気なく使っている「御利益」という言葉ですが、今一度考えていただきたいと思いお話しさせていただきました。

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