ラジオ放送「東本願寺の時間」

平原 晃宗(京都府 正蓮寺)
第六回 「言葉」について音声を聞く

 おはようございます。今朝は「言葉」ということについて考えてみたいと思います。真宗大谷派の僧侶である、金子大榮という方は「宗教は生涯をたくして悔ゆることのないただ一句の言葉との出会いである」という主旨のことをおっしゃいました。私たちは、日頃言葉でコミュニケーションをとっていますので、言葉は無くてはならないものです。しかし、言葉は一歩間違うと大きな過ちに繋がることもあります。例えば、日本語では文章の最後に「無い」が付くだけで、全く反対の意味になります。以前お経を練習する研修会で、先生が「最後の箇所は音が下がる」とおっしゃいました。後日、同じ研修会に出席していた友人が、「最後の箇所の音は下がらないとおっしゃっていた」と言ったので、どちらが正しいか押し問答になりました。
 また最近は言葉が色々なところで氾濫しているように思えます。TVを見ていても過剰なぐらいテロップが出ますし、電気器具の取り扱い説明書などはもうわかっていると思うぐらい多くの説明がしてあります。また、街で貰うちらしには沢山の言葉が羅列してあり、会議の資料も必要がないぐらい多くの紙が使われ、文字が並んでいます。このような言葉に溢れている現代について思うことは、便利な言葉によって、むしろ私たちは迷わされているのではないかということと、そうは言っても言葉でないとこの事実にも気が付けない面もあると思います。
 お釈迦様はさとりを開かれて後、喜びに浸っていらっしゃいました。しばらくしてお釈迦様の元に、全世界の神である梵天がやって来て、さとりの内容を世の人々に説くことを要請します。お釈迦様は躊躇しますが、後にさとりの内容を説く決意をし、多くの人々を目覚めさせることになります。今、私たちがお釈迦様の教えを聞くことができるのは、この時にさとりの内容を説く決意をしたからに他なりません。ここで、お釈迦様が説法を躊躇されたことは、さとりの内容が人々に伝えることは難しいということであり、難しいさとりの内容をあえて言葉にされたことは、言葉で迷っている人間には言葉でしか目覚めさせることができないという思いからではないのでしょうか。
 近年、パソコンやコピー機などの便利な道具が発達したため、レポートの作成もインターネットの文をコピーし、そのまま提出することもあるそうです。思いを言葉にすることは難しいことですが、その言葉を駆使し、言葉を磨くことが現代の私たちに欠けているのかもしれません。それは長く説明するから伝わるものではなく、たった一言でも伝わることもあるのです。
 現在、私は中学・高校・大学で授業を担当させていただいているのですが、中学校の授業を初めて担当した時のことです。当時、高校の授業を何年かしていた私は、中学校でうまく授業ができるのか不安でしたが、滑り出しは順調でした。しかし、慣れだしてくると生徒は徐々にだらけ始め、注意することが多くなりました。そのようなことから、生徒との関係が悪化し、二学期の中頃は、「以前に担当していた先生の方がよかった」という生徒の声も聞こえてきました。どうすることもできなくなった私は、前年に同じ教科を担当された先輩の先生に相談しました。その先生は私の話を聞いて「そのままの先生のスタイルで続けてください。私にはあなたのような授業はできないし、先生も私のような授業はできないでしょ」と答えられました。私はその先生の真似をすれば少しでもよくなると思っていましたから、その一言をお聞きして展望が見えてきました。言葉の使い方は難しいものですが、たとえ短い言葉であってもある人の人生をよりよく変える場合があります。ちょっとした言葉の出会いに注意して生活してみてはいかがでしょうか。

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