ラジオ放送「東本願寺の時間」

平原 晃宗(京都府 正蓮寺)
第五回 「地獄」について音声を聞く

 おはようございます。今朝は「地獄」について考えてみたいと思います。近年、地獄絵図が本屋さんで売れているようです。私が幼い頃は、生きている間に嘘をついたり、悪いことをしたりすると、死んだ後に地獄へ堕ちるということを信じていましたが、近頃はそのようなことを子どもたちが信じているように思えません。現実味がなく、作り話の一つとして済ましているように思えます。実際に地獄が存在するのかどうかを問うよりも、昔の人たちが地獄を通して、何か大切な事を伝えようとしたのではないかということを考えてみたいと思います。
 経典の中に地獄の一つとして「衆合地獄」の様子が説かれています。ある罪人が地獄の鬼によって林の中に配置されることになりました。ある木の頂上を見ると、美しい女性が罪人に向かって手招きをしています。罪人は手招きに寄せられ、その木をすぐに登っていきます。その罪人が木に登った瞬間、木の葉はカミソリのような鋭利な刃となり、罪人を切りつけました。罪人は鋭い刃によって血まみれになり、身体を切り裂かれましたが、それでも木の頂上に向かって登り続けました。罪人が頂上に着くと、その女性はおらず、罪人は辺りを探しました。そうすると木の下にその女性が先ほどと同じように手招きをしています。罪人は急いで、鋭い刃になっている木の葉をかきわけ、血まみれになりながら木の下にいる女性のところへ向かいました。罪人が地上につくと、女性はおらず、今度は木の頂上で手招きをしています。罪人は再度、木を登っていくのですが、このことを百千億年の長い間繰り返したそうです。
 この地獄は、人間が自分の欲望によって地獄を作り出していくということを言い表しているのだと思います。地獄が自分の外側にあるのではなく、自分自身がつくり出しているということなのです。例えば、お酒を好きな人は、身体が悪くなろうとも毎晩お酒を飲み、止めようとしない場合があります。それは、自分の身体を傷つけながらも、お酒を飲みたいという欲望にかられ、どうしようもない状態になっているのです。このように地獄は自分自身の欲望が作り出している世界であり、このことを伝えるために昔から地獄という世界を大切にしてきたのだと思います。
 また地獄という言葉を聞くと、大学時代の先生が生前に「たとえ行きたくない地獄であっても、地獄の中に居場所があれば安心することができる」とおっしゃったことを思い出します。そもそも私たちが地獄という言葉を使う時は、試験に不合格になった後、財布を落とし、友だちと喧嘩をしたなど、自分の思いが連続して通らない時や辛いことが続いた時の代名詞として使います。例え地獄のような辛いことがあったとしても、自分の居場所があれば安心することができるというのは、「私が私であってよかった」と頷けたことではないでしょうか。辛いことから逃げれば、逃げるほど地獄の恐怖は無くならず、むしろ地獄は追いかけてくるでしょう。自分にとって辛く、嫌なことも自分を成り立たせる大切な経験としていただいていくことが、先ほど述べた「私が私であってよかった」ということではないかと思われます。
 親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と、自分は修行ができない身であるから地獄は私の住まいであると言い切りました。それは法然上人と出遇い、念仏の教えを聞き、たとえ修行ができなくても、私はいただいた御縁を生きていくことを発見されたことばとして了解することができるのだと思われます。

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