ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃徳(茨城県 專照寺)
第一回 聞きたい音声を聞く

 みなさん、おはようございます。茨城県日立市の専照寺で副住職をしている田村晃徳と申します。これから6週間もの間、皆さんと貴重な時間を過ごしていけることをとても嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
 ただ問題がありまして、それは私は緊張しやすい人間だということです。人前で話す時は、子どもの時からいつも緊張しています。今日は、人前ではなくマイク前なのですが、それでも事情は変わりません。みなさん、私の声が聞こえますか?
 それほど緊張するならば、ラジオの仕事は断ればよかったではないか、という意見もあるでしょう。おっしゃるとおりです。しかし、おっしゃるとおりではあるのですが、なかなか正論通りに進まないのが世の常でもあります。緊張はするだろう、しかし、ラジオ放送などという経験は中々出来るものではない。それならば、やってみるのもいいだろう。そのような結論に至りました。ですから、実は私自身もこの放送を聞くことを楽しみとしている一人なのです。
 けれど、ここに根本的な問題があるのです。実は私はラジオ放送を聞くことが出来ません。正確に言えば、私の住んでいる地域は、電波が届きにくい地形なのか、ラジオ放送がきれいに入ってこないのですね。聞きたいと思う人に、その声が届かない。あるいは本当に聞いてほしい人に、その声が届かない。つまり聞くべき人が、それを聞けないということになるのですが、私はその時にあることを思い出します。それは東日本大震災です。
 あのときもそうでした。私の地元である日立市は震度6強という、とても大きな地震がおこりました。お寺が崩壊するということはなかったのですが、門徒会館といって、お寺にお参りに来た方々が利用できる会館の瓦が次々と落ちるなど、その異常さは明らかでした。家族がそれぞれバラバラの場所にいたので、安否の確認が中々出来ず不安でした。何とか再会し、ホッとできたのですが、冷静になると次の疑問がわいてきます。「一体、何が起きたんだ」と。しかし、ネットもテレビもつかない状況で、誰もその答えを与えてくれることが出来なかったのです。そして私達は停電による照明がない真っ暗な中、不安に満ちた文字通り闇の中で時間を過ごしたのでした。
 普段は情報化社会と呼ばれ、電源のボタンさえ押せばテレビやスマートフォンの画面を通じて世界中のあらゆる情報が入ってきます。私達はその状態を当たり前だと感じ、何の驚きもありません。しかし、いざ情報が欲しい時には何も与えてもらえないのです。今、何が起きているのか、それだけを教えてもらえればよかったのですが、それさえも入ってこないのです。当時、「ライフライン」という言葉がよく聞かれました。これはもちろん、電気、水道など生活を維持するのに必要なものの総称です。でも、この「ライフライン」という言葉は、通常の意味以上に何かを示唆しているように思いました。それは私達の生命は、か細い線に支えられていること、そしてその線が切れるときに、普段便利さを享受している私達は、生きることに戸惑いをおぼえることです。
 私達は情報を得ることに日々躍起となっています。それは情報を得ることによって、自分が賢くなること、そして生きる上で有利になり、他人よりも前に進めることなど様々な思惑があってのことでしょう。しかし、情報の洪水という表現があるように、私達は文字通りあまりにも多くの情報に流されており、情報を使うはずが、情報に振り回されているのが実際なのでしょう。その結果、本当にほしい情報、言い換えれば本当に聞くべきことが耳には入っていないと言えるのではないでしょうか。生きる上で本当に聞くべきこと、これが何かを考えなければならないと思うのです。みなさんは、何が聞きたいでしょうか。それを考えていきたいのです。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回