ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃徳(茨城県 專照寺)
第六回 あなたは、だあれ音声を聞く

 みなさん、お早うございます。いよいよ私のラジオ放送も今日で最後となります。長かったようで、始まってしまえばあっという間でした。このようにたくさんの「あっという間だね」を繰り返して、私たちは月日を過ごし、年齢を重ねてしまうのでしょうね。
 僧侶であったり、保育園の園長などをやっていると、自ずと知り合いが増えてきます。おまけにこの春からPTAの会長にも就任したので、また知り合いが増えました。私は知らなくても、相手は私を知っているという場合もあるでしょう。ですから、私はスーパーで買い物をする時は、目があった人みんなに笑顔で一礼しています。最近、笑顔がふえました。
 私は顔覚えはいいのですが、名前を覚えるのが苦手です。一方、私の家内は名前を覚えるのは得意ですが、顔覚えが苦手ときています。「2人で一人前だね」と妙な納得をしています。
 誰かを覚えるとき、私たちはその方の特徴で記憶しますよね。一番はやはり顔と名前でしょう。「ええと、あの目尻が下がって、一見童顔な人なんていったかな」「あぁ、田村晃徳ね」という会話はありえます。でも、目尻も、一見童顔も私を指してはいますが、それで私の全部を示しているわけではもちろんありません。それでは、もう少し項目を増やしてみたらどうでしょうか。例えば、自己紹介を延々としてみると仮定してみましょう。私は以前保育士の研修会でA4の用紙一杯に自己紹介を書いてもらったことがあります。保育士はまじめな人が多いですから、戸惑いながらもそれぞれ書いてくれました。たくさん書ける人、少しだけ書ける人、それぞれいました。面白いのは、みなさんどれだけ書いても自分について語り尽くせない、正確に言えば自分のことを言い当てることが出来ないのですね。書けば書くほど自分から遠ざかっていくような、そのような感覚だったようです。「ありのままの自分」、「本当の自分」と言われると何となく想像はつきます。でも、実際探してみると、それはあくまでも空想の産物であり夢に出てくるような素敵な自分でしかなかったのです。それを見つけることは自分では出来ないのですね。自分でありながら、自分が分からない。驚きですよね。でも、この驚きが面白いのです。
 私はラジオ放送の1回目の最後に「生きる上で本当に聞くべきこと」は何なのか、考えてみたいと話しました。「みなさんは、何が聞きたいですか」とも話したのですが、その答えは「自分」だと言えるでしょう。普段ならば、自分のことは当たり前すぎて改めて考えることはありません。しかし、何かのきっかけで自分は自分のことを実は分かっていなかったことに気づきます。そして2回目の放送で「人生に巻き戻しは出来ない」ことも述べました。そして仏教は私たちに今を、この今の人生を生きろ、と促し、同時に「とりあえず」日々を過ごしていた自分に気づかせてくれるのです。仏教の言葉を聞くことは、実はそのような気づきを私たちがいただくためにあるのでしょう。
 仏教は難しい、もっと分かりやすく伝えてほしい。そのような声をよく聞きます。しかし、仏教の言葉が難しいのではなく、仏教の言葉を受け入れられない自分を弁解するために「仏教は難しい」と言っているだけかもしれません。確かに、仏教は古いかもしれません。しかし、誰かが仏教を語り、それを聞く人がいて、また語られていく。その繰り返しが仏教の歴史です。その意味では常に今、新しい人が生まれていくのであり、常に現在進行形で伝えられていく教えなのです。私たちは真剣に生きれば生きるほど道に迷い、時には自分自身が分からなくなります。その時には「あなたは、だあれ?」と深い疑問が起こります。でも、その疑問の誕生こそが仏教、親鸞様の教えが耳に届く準備が出来た証しなのかもしれません。

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