ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃徳(茨城県 專照寺)
第五回 語る音声を聞く

 幼い頃好きだったものは、大人になってもそのままなようです。私はプロレスが好きでした。中学の時は専門の週刊誌を毎週買っていました。その中にこのような記事があったように朧気ながら記憶しています。その週刊誌はどちらかというと辛口でした。それが面白かったのですが、その週刊誌による試合評に現役のレスラーが言ったそうです。「プロレスをやったことのない奴に何が分かるんだ」と。なるほどなぁ、と思いました。でも、何か割り切れないから、この出来事を覚えているのでしょうね。
 やったことの無い者、つまり体験したことの無い人に何が分かるのか、というのは確かに正論です。例えばご飯を作ったことのない人が、料理について語ることは難しいでしょう。けれども、体験のない人は何も語れないとなるとどうでしょうか。政治について語ることのできるのは政治家だけになってしまいます。料理について語ることのできる人は料理人だけになってしまいます。戦争について語ることのできる人は、戦争の体験者だけになってしまいます。仏教について語ることのできる人は、悟りを開いた人だけになってしまうかもしれません。その時、体験談は人と人を断絶させるだけでしょう。
 語る資格というのがあるとすれば、体験は大きな条件となります。しかし、体験には大きな問題があります。それは、人は体験によって縛られてしまう、少し具体的に言うと自分の体験を絶対視してしまうことです。体験によって人は見方を広くします。しかし、その一方で体験したばっかりに、見方が固まってしまう事もあるのです。成功体験の押しつけは、そのいい例です。それはその人にとっては成功だったでしょう。しかし、あくまでも「その人にとっては」という限定付きであり、人に強制できるものではないのです。
 親鸞様も様々なことを体験されました。自分の生き方について悩んでいたときに、六角堂という京都のお寺に幾日もお参りをしていたら、夢の中に仏様が現れたそうです。それがきっかけとなって生涯の先生である法然様に出会いました。親鸞様は喜ばれたでしょう。自分の進むべき道が見えたのですから当然です。六角堂にお参りしてよかった、とも思ったかもしれません。しかし、「だからみんなも六角堂に参拝して仏様と夢の中で出会いなさい」とは決して言わなかったのです。もし、そのようなことを言っていたら、どうなるでしょう。それは体験のみを重視する体験主義になってしまいます。そして、その体験をしない者は仏教によって救われることはないという、いわば「救われる条件」を作ってしまうのです。親鸞様は深く考える方でした。ご自分の体験についても同様に考える方でした。六角堂の出来事、法然様との出会いなどを通じた仏教の学びから知ったこと。それは「あらゆるものを救うのが阿弥陀様の願いであったのか」でした。自分が救われていったのは、自分の体験や能力によるのではない。それは阿弥陀さまの願いによるのだという確信であり、発見だったのです。そして、その後の人生を阿弥陀様の教えを人々に語ることに捧げたのでした。その語りを聞く者は、親鸞様という個人を通して、その背景に流れる阿弥陀様の願いという広い世界に出会うことができたのです。
 体験はあくまでも個人のものです。ですから、どれほど体験を語っても、聞く相手が同様の体験をするわけではありません。しかし、その語りを聞いて、その背景に流れる広い世界、例えば戦争の体験を聞くのであれば、平和への思いという願いに出会うことを通して、私という限られた個人を越えた広い世界に触れていけるのです。体験を語り、体験を聞く。そして、また新たに語る人が生まれる。いわゆる体験の伝承が力を持つのは、その背後に流れる願いにふれたときなのでしょう。

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