ラジオ放送「東本願寺の時間」

田村 晃徳(茨城県 專照寺)
第二回 とりあえず音声を聞く

 みなさん、おはようございます。本日で私のラジオ放送も二回目となります。色々な方がチューニングを合わせて聴いてくれているそうです。その中には、私の知り合いで、つきあいもあるからとりあえず聴いてみようという方もいるかもしれません。今回は「とりあえず」についてです。
 前回の放送で私の住んでいる地域にはラジオ放送が届かないという話をしました。それで、まぁどうするかと言えば、世の中便利になったものですね、インターネットラジオというのがあるのです。私の場合でしたら、スマートフォンにラジオが入るのです。きれいな音声で入るので、助かりますよ。しかも、便利なことにタイマーをセットして録音も出来るのですね。関東でしたら、この放送も日曜の早朝ですので、きちんと早起きして聞いている方もいれば、録音して後から聴くという方もいると思うのですね。私はどうするか分かりませんが、とりあえず録音してあとから聴くかもしれません。ところが、ここに問題が一つ。「とりあえず」という気持ちで録音した放送を、後から聴くか?という問題です。
 もちろん、自分の放送ですから聴くとは思いますが、自分とは関係ない放送、例えばテレビの録画などはどうでしょうか。今は、何百時間と録画できるのもありますから、残り時間などは気にせずに「とりあえず」録画する番組も当然増えてきます。ところが「とりあえず」録ったという位ですから、すぐに見ることもなく、次々と他の番組がたまっていき、結局見ることなく消去してしまうこともよくありませんか。映画をスクリーンで観るか、DVDで観るかの違いもそうですよね。例えば、DVDであれば台詞が聞こえなかったり、トイレに行きたくなったら、再生を一度停止するか、また別の日に観るということができますが、映画館はそうは行きません。台詞が聞こえなくても、登場人物の名前を忘れても、「巻き戻してもう一度」はできません。その点で一回きりの出来事です。
 録音、録画するという行為は聴く、観るという、今やることを、後に回すことです。それはまた後からできるという前提に基づいています。しかし、録音などせずに今聴いたり、今観たりする。それは一度しかないのですから、緊張するわけですよね。しかし、真剣にその時間を過ごすという態度にもつながっています。今聴いたり観たりすることを生で聴く、生で観ると言い換えてみましょう。そのような「生」を大事にする態度は「今」を大切にしている生き方なのです。
 実はそのように今を、そして今の人生を大切にする態度は仏教の根本的な姿勢でもありました。仏教徒のあり方を示した「三帰依文」という文章があります。これは仏教を信じる者は「仏様」と「仏様の教え」と「仏様の教えを信じる仲間」を大切にし、自分のよりどころとする事を述べた文章です。その中に次のような言葉があります。

  人身受け難し、いますでに受く。
  仏法聞き難し、いますでに聞く。
  この身今生において度せずんば、
  さらにいずれの生においてか
  この身を度せん。
  大衆もろともに、
  至心に三宝に帰依したてまつるべし

 人間として生まれることは難しい、しかし私は今、人間として生まれている。仏教の教えを聞くことは難しい、しかし私は今、仏教の教えを聞いている。この身を、今の人生において救うことがなければ、一体いつ救うというのか。多くの方々と共に、心から仏様、仏様の教え、仏様の教えを信じる仲間達を、自分の生き方のよりどころとするのだ。大体、このような意味でしょうか。自分の人生は後からもう一度やり直すことの出来ない、一回きりのものです。だからこそ、私たちは自分の生を大切にしなければなりません。今日も一日が始まるわけですが、それは「とりあえず」も「もう一度」もかなわない、今日しかない一日なのです。「生」という字と「生きる」という字が同じであることも、きっと意味があるのでしょう。

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