今日は道徳と宗教について思うことをお話させていただきます。
20年ほど前、海外へ留学する学生を対象に英語を教えていた友人に「宗教と道徳はどう違うのか」という質問をされました。彼が言うには、外国語はその背景にある、文化や伝統を学ばないと、言葉そのものの理解が不十分になるというのです。
例えば「さようなら」を意味する英語は“Goodbye”ですが、これは「あなたがどこに行っても神様がそばにいますように」という意味です。またスペイン語の「さようなら」は“Adios”で、これも始まりは「神様のいる方に向かってね。道をそれるんじゃないよ」という願いが込められた言葉だそうです。だから、英語やスペイン語を学ぶときは、その背景にあるキリスト教に関する理解が必要だというのです。
日本語の「さようなら」は「さようならば失礼つかまつる」という、その場を立ち去るときの言葉が短くなったものだと聞きました。そこには、特に宗教的な意味合いはなさそうですが、日常生活を振り返ると、例えば、「我慢する」とか、「迷惑する」、「退屈する」、また、よく使う「ありがとう」という言葉すらも、仏教に深く関係しています。
言葉を教えるという事で、宗教に関心を持った彼がたどりついたのが、「ところで宗教と道徳はどう違うのか」という問いでした。それを聞かれたときは、きっちりと答えることができず、「信仰があるかどうかじゃないか」とか「道徳に神とか仏とかはいないんじゃないかな」などと答えていましたが、彼はもちろん納得していませんでした。(削除可)
大谷中学・高等学校に勤め、10代の若い人たちと過ごす時間が多くなるにつれて、この問いは私の問題になりました。
道徳は、「これはしてはいけない」、「こうでなければならない」といった、社会的規範や模範的なあり方を教えてくれます。だから、道徳は必要なことです。大事なことです。
「人」偏に漢字の「二」と書いて「仁」と読みますが、これは「人が2人いるときに守らなければならないこと」という意味だそうです。これを破ると「傍若無人」<傍らに人無きが如し>という、「自分勝手な生き方」になります。
しかし、道徳はあくまでも自分に付け足すことのように思えるのです。いい人になるための道です。でもその道徳には、付け足す前の自分を見る眼が欠けているように思うのです。それに対して仏教は、どこまでも「自分」がどのような存在かを見定めていく教えです。
道徳では「うそをついてはいけない」、「人を傷つけてはいけない」、「隣の人のことをまず第一に考えなさい」ということを教えてくれます。これらは小さい頃から教えられないと身に付きません。全て、大切なことです。みんなそうありたいのです。
しかし、人間はそうありたいと願っても、その場の関係や条件や都合などによって、そういう「清く・正しい」自分ではいられなくなります。
今年12歳になる長男が、3歳の頃、押し入れに上半身を突っ込んで、まさに「頭隠して尻隠さず」の状態で隠れていた時の事を思い出します。「何をしているんや」という私の声にも、気付かないふりをしてじっとしていました。もう一度聞くと、「何も食べてへんで~」と、言いながらこちらを振り向きました。
彼はアレルギーがひどく、食べたいおやつもろくに食べられなかったのですが、もう我慢できなかったのでしょう。こっそり食べてしまったのです。でも、ばれたら怒られるので、できる限りの作戦を練ったようです。
「何をしているの」の問いに「何も食べてないよ」と答えるその口のまわりにはチョコレートがべったりと付いていました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもするべし」。親鸞聖人の言葉です。条件さえ整えば、どんなことでもしてしまう。人間はそういう悲しい生き物だとおっしゃるのです。
子どもを笑っている場合ではありません。私自身、窮すればうそをつき、ごまかし、そのピンチから逃れることに必死になってしまいます。わかっていても繰り返してしまいます。そういう私であることを自覚せずに「道徳心」ばかりを付け足せば、いい人を演じて生きるしかなくなります。ばれるまでうそを繰り返すしかありません。不自由極まりない生き方です。
うそをつくのも、人を傷つけるのもいけないことです。しかし「私は、縁さえ整えばどんなことでもしてしまうというところに立てる」か。それが大事なのだと思うのです。残念ながら、自分の力では、そういう自覚は、なかなか生まれてこないものです。教えに出会うことで、はじめてはっきりとしてくるのではないでしょうか。そこに「道徳」と「宗教」の違いがあるのではないかと思うのです。