ラジオ放送「東本願寺の時間」

乾 文雄/滋賀県 正念寺
第五回 道徳と宗教の狭間で音声を聞く

 私は京都にあります、大谷中学・高等学校で宗教と英語を担当しています。先週は「道徳」と「宗教」の違いについてお話をしました。今日はもう少しそのテーマでお話をさせていただきます。
重ねて言いますが、道徳は大切です。人間は「人の間」と書きますから、一人で生きることのできない存在です。そういう意味でも、皆が身につけるべく、しっかり学ぶ必要のあるものが道徳です。
しかし、道徳心は自分を厳しく見つめる眼をいただかない限り、ともすると、他者を責める道具になってしまいます。道徳だけでは人間に成ることはできないなあと、最近つくづく思います。
親鸞聖人から数えて八代目の蓮如上人は、「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。」と言われています。他人の悪いところはよく見える。しかし自分のダメなところは気付きもしないと。
まさにその通りで、私たちは、近くにいる人から、テレビでしか見ないような遠い存在の人のことまで、とにかく悪いところを見つけるのが得意です。身近な家族であれ「あなたのそういうところが駄目なのだ」と言ってしまうことがあります。また、ひいきの野球チームであれ、負けがこむと、「あの監督ではだめだ」といい、「わたしの方がましだ」とさえ言ってしまいます。自分にプロ野球の監督が務まるはずがないのに。
わたしたちは残念ながら、どこまでも自分を中心において生きています。ですから自分の都合や思いにそぐわなければ、その人はダメな人だとなっていくのです。「あいつは確かに実力はあるかもしれないが、ええ加減なやつやで」と、駄目なところに重きを置いて他人を評価してしまうのです。
これは、教員をしていると、「知らなかった」では済まない、本当に大事なことです。このことに気付いていないと、目の前にいる生徒のダメなところや足りないところ、できていないところばかりが気になります。そして教育において最も大切なことである、まずは無条件にその生徒を認め、受け入れるということを忘れてしまいます。
親子の関係もそうですね。子どもには、何はなくとも大人である親に絶対的に認められているという安心感が大切だと思います。何をしても、例え怒られても、私は認められているということがあれば、安心して生きていけるのでしょう。
蓮如さんの言う通り、生徒の悪いところはすぐ目につきますから、それをどうにかしてやるのが、教師としての自分の仕事だという錯覚が起こります。しかしながら、駄目出しばかりする教員のいうことは、誰も聞かなくなります。そしてその教員の中に、「あいつはダメだ。人の云うことを全く聞かない」という「否定の悪循環」が始まります。
人間は自分のだめなところを指摘されたりすると、なかなか素直に受け止めることができません。うすうす自分でも感じていたところを指摘されたりすると、正しい意見でさえ、「なんであなたにそんなことを言われなければならないのか」と、逆に腹を立ててしまうことがよくあるのです。その人は、せっかく勇気を出して、私のために言ってくれたのに、「ありがとう」という言葉が出てきません。
生徒も教員の悪いところ、できていないところはすぐに目に付きますから、こう思うのです。「あんたに言われる筋合いはない」と。
教育は「教えるに育てる」と書きますが、世間ではよく「共に育つ」と書いて教育だと言われます。教える側こそ、教えられる側の人から学び、共に育っていくという事でしょうか。
しかし、最近、ある先生に「教育は響くに育てると書いて、初めて教育と言えるのです」と教えられました。響きあう、通じ合うということ、つまり、常に相互通行というか、反応し合うということが教育の基本であるとの指摘です。ですから、一方的に知識を与えたり、「こうあるべきだ」という道徳心を与えたりしようとしても、そこに深くうなづきあうということが成り立たなければ、ただの知識の切り売りであり、「ところでそんな偉そうなことを言うあなたはどうなの?」と思われるだけだという事です。その時点で学びは深まることなく「はい、はい」と言われて終わります。
蓮如さんは、先の言葉に続けて「人の云う事をば、よく信用すべし」とおっしゃいます。なかなかそれができません。「響くに育てる」と書く「響育」は「よし、この人の言うことを聞いていこう」という思いがお互いの心の中に生まれていくということなのでしょう。

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