今日から6回にわたって、現代社会において私たち人間が生きる道を、親鸞聖人の教えを通して確かめて参ります。
物と情報に溢れた現代は一見便利なようですが、人間の心に目を向ければ、大変生きにくい時代であると言えるでしょう。多くの人たちが他に言えない悩みを抱え、将来の見えない不安におののきながら、何を依り処にすればよいのかが分からずに苦悩しています。そして3年前には東日本大震災を経験し、自分の意のままにはならないいのちの現実を思い知らされました。まさに今、人間として生きることの意味が根底から問われていると言えるでしょう。
最近の世の中では悲しみをできるだけ避け、苦しみを経験しないで済むように取り計らう傾向があります。そして仏教もまた、苦しみをなくしてくれるものであると考えられがちです。ところが、本来この世は苦しみであると捉えるのが仏教なのです。生老病死、つまり生まれて、老いて、病を得て、死んで行くという、この人生の相(すがた)が真実であると説くのです。そして仏教は、この苦悩の現実に向き合う中で、思い通りにならない人生を力強く歩む力を与えてくれるのです。私たちに先んじてその教えに生きた人が、親鸞聖人という方でした。
親鸞聖人が生涯を送られた頃は、貴族から武士へと政権が変わる激動の時代でした。そこへ飢饉や疫病、大火に地震と相次ぐ災害で、人々の生活は困窮を極めたとされます。私たちが生きる、この苦悩に満ちた現代は、親鸞聖人の時代と世相があまりにも似ているように思います。親鸞聖人という方は、単に800年前に生存した歴史上の人物に止まりません。聖人は、私たちと同様に一人の人間としてこの世に生を受け、そして厳しい時代社会にあって、悩み、苦しみ、迷い続ける中で、人として歩むべき確かな道を求められた方でした。苛酷な社会状況であればこそ、私たちは親鸞聖人に出遇い、その教えに生きる依り処を見出していけるのかも知れません。
激動の時代を歩まれた親鸞聖人のご生涯は、決して平穏なものではありませんでした。幼くしてご両親と別れて出家なさった背景には、複雑な事情があったものと推察されます。念仏への弾圧によって流罪に遭い、人生の師匠法然上人とも別れなければなりませんでした。晩年には、息子との縁を絶たねばならないという経験もなさいました。理想を実現することに価値を見出す今の一般的な感覚からすれば、親鸞聖人の一生は、およそ幸せとは言い難いものでした。決して夢や希望に満ちた人生ではなかったかも知れません。しかし苦悩と向き合う中で、人間にとって夢や希望以上に大切なものに出遇われたのではないでしょうか。
苦しみを克服して幸せになるのではなく、苦悩するままに救われる世界、これが親鸞聖人の出遇われたものでした。南無阿弥陀仏というお念仏は、どんなに迷い苦しんでいる者であっても絶対に見捨てない、という阿弥陀如来の呼びかけです。人間の側から見ている限りにおいて苦悩でしかなかったものも、阿弥陀様の大いなる慈悲に抱かれれば、人を生かす力に転じていく、そういう世界が開けるのだと、親鸞聖人は顕らかにされたのです。
親鸞聖人が救いを求めて歩まれた道を、現代に生きる私たちが共にすることで、時を超えて伝わって来た仏様の智慧に出遇えるのではないでしょうか。次回から親鸞聖人の出遇われた世界によりながら、この苦悩に満ちた世の中を生きる依り処について、ご一緒に考えて参りたいと思います。