ラジオ放送「東本願寺の時間」

茨田 通俊/大阪府 願光寺
第五回 共に縁を生きる者として音声を聞く

 現代社会における課題を東日本大震災に見出しながら、私たち人間の生きる道について考えています。
東日本大震災の後、「絆」という言葉が世の中で盛んに取り上げられました。復興に向けた営みの中、被災者同士の助け合い、ボランティアの献身的な活動等の姿を通して、人と人との結びつき、即ち絆が深まった、あるいは人間同士のつながりの強さに改めて感じ入ったということだと思います。一方でそれは、絆をもちたい、安心が欲しいという現代人の感情の表れ、つまり人と関係をもつことによって、自分の存在を確かめたいという想いであって、日頃の孤独感を逆に映し出していると言えるかも知れません。
ところでこの「絆」という言葉を辞書で引いてみると、意外なことに気付かされます。「絆」という語は、元来は「動物をつなぎとめる綱」を表し、「人の自由を束縛するもの」という意味で使用するということです。もちろん言葉は生き物ですから、時代と共にその意味に変化があって当然です。人と人との結びつきという肯定的な意味でこの言葉を捉えることに、特に異論はありません。
しかしここでは、「絆」という語が元来「束縛」の意味を表すことに注目してみたいと思います。よく考えてみると、人とのつながりは文字通り個人を縛るものとして、次々と切り捨てて来たのが、近代社会の歴史ではなかったでしょうか。わずらわしい付き合い、うっとうしい人間関係、つまりしがらみとしての絆です。核家族化が進み、地縁関係は失われ、都会では隣に誰が住んでいるのかも知らないという状況が広がっています。結果として各々が孤独感を深めてしまっているのではないでしょうか。寂しいから誰かとつながっていたいという思いは、裏を返せば、煩わしくなれば関係を切りたいということでもあります。そういう人間というものの悲しむべき相(すがた)が問われているのでしょう。
仏教では、この世は縁によって成り立っていると考えます。すべてのものは私たちの都合、事情を超えて関係し合っているのです。自らの意思によらずとも、まさに縁次第で人と出会ったり、別れたりということがあります。出会いも縁、別れも縁。ただ言えることは、この世のすべてものは関係し合って存在しているということです。
ですから人との関係を無理に求めなくても、決して一人ということはあり得ないのです。逆に関係を切ろうにも、私の意思によらずに、必ずどこかでつながっているという厳然とした事実があります。つまり煩わしさも人恋しさも、実は私たちの都合が作り出したものなのです。どうしようもないのは、まさにそうした私の自己中心的な有様ではないでしょうか。
私の都合でものを見ているために、人を選び、人を切り捨てて、その結果空しく時を過ごしているのではないでしょうか。私という存在は、様々な縁によって成り立っているという事実に目覚めることで、一人で居ても決して寂しくもなければ、一人でありながら、あらゆる人と共に歩んでいるという自覚の下に生きていけるでしょう。
縁によって生かされている私です。そしてあらゆる人々との関係性なくして、私という人間は語れません。またそれはすべての人に当てはまるのです。一人一人がお互いに関係しながら生きており、またその関係、即ち縁において存在している仲間である、とも言えるでしょう。自分のはからいを離れて仏の眼差しに立てば、独立した一人ひとりが共に生き合える世界が開かれるのではないでしょうか。

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