今回も東日本大震災の問題を通じて、私たち現代に生きる者が歩む道を考えたいと思います。
ご承知のように、東日本大震災で大きな問題となっているのは、福島第1原子力発電所の事故です。放射能の拡散によって周辺地域の住民は避難を余儀なくされる等、大きな被害をもたらしました。今もなお収束に向かうどころか予断を許さない状況が続いています。原発事故の影響で故郷を遠く離れて、今この放送をお聴きになっている方もいらっしゃると思います。いつ帰郷できるかも分からない不安の中で毎日を過ごされている方々に、一刻も早く本来の居場所が回復されることを願わずにはおれません。
原発の事故は科学万能を信じて疑わず、経済優先で物事を推し進めた結果の惨事と言えるでしょう。人間の知恵をもって自然を支配できることを当然として来たのは、人間自身のおごりに他なりません。地震の多い国に原発が数多く立地するという世界的に珍しい状況下で、唯一の被爆国として核エネルギーの危険を承知しながら、原発の安全神話に甘んじてきたことが深く反省させられます。
そして電力の多くを原子力に依存して、現代の便利な生活を享受して来たのは、他ならぬ私たちなのです。事故を起こした原発やその関係者に対して、多くの人が不満を覚え、怒りを抱きながら、自分自身はその電気によって生活しているのです。人間とはそのような矛盾を抱えた存在であるということが顕らかになったのです。そういう真実に暗い私でしかないのだということに、まず気付く必要があるでしょう。
もしも脱原発を言うならば、当然代替エネルギーの可能性を考えることになります。しかしたとえば、火力発電にしても二酸化炭素排出の問題があります。水力発電では、ダム建設に伴う河川の環境への影響が心配されます。このように人間が生きていくということは、少なからず自然破壊等を免れないのです。しかし私たちは、そのことにどれだけの痛みを感じているでしょうか。悲しいことに、生きることそのものが罪深い身の上にしか成り立たないのが人間なのでしょう。
原発という人間の手に負えないものを、われわれは科学の粋を集めた設備と信じ、豊かな生活を提供するものとして容認して来ました。必要以上に人間の知恵に頼るという限りなく深い闇が、我々を覆っているように思います。もちろん科学の発展がいけないということではありません。それが絶対であるとしか見られなかったことに問題があるのではないでしょうか。ただ科学万能主義を批判するのではなく、どこまでも真実に暗く、絶対ということはあり得ないにも拘らず、一定の尺度をもって正しいとしてしまう人間の愚かさが問われるべきだと思います。
原発問題は、誰かを責めて解決するものではありません。原発に反対する人が、自分は正しいという思いに立って事を進めるならば、たとえ将来原発が全廃されたとしても、私たちの社会には、また形を変えて新たな問題が生じることになるでしょう。われわれ人間の心の闇が原発を生み出したことを、決して忘れてはならないと思います。
原発問題という社会の悲嘆すべき課題を通して、他のものを傷つけずには生きられない我が身の事実を悲しむ目が開かれます。人間という存在を深く悲しんで救い摂らずにはおかない仏様の願いに目覚めることで、どこまでも愚かな自分の身を悲しむ眼が与えられるのでしょう。それは、たとえば原発の存続に賛成か反対かという立場の違いを超えて、すべての者が共有すべき視点だと考えます。実はそこから、この苦悩の溢れる世の中をあらゆる人々と共に生きようとする歩みが、一人ひとりの身に始まるのだと思います。