ラジオ放送「東本願寺の時間」

茨田 通俊/大阪府 願光寺
第六回 悲しむべき存在として共に生きる音声を聞く

 現代に生きる私たちの心の依り処を、親鸞聖人が出遇われた世界に尋ねながらお話をして参りましたが、今回が最終回となりました。
これまで自己中心的な見方しかできない人間の愚かさということを考えて来ました。実に人間はいかに理性的に振る舞おうとも、きわめて限られた経験と知識に基づいて、物事の判断をしているに過ぎないのです。そして自分の尺度を基にものを考えるということは、自分は正しいというところに身を置くことになります。
世界で絶えることのない戦争は、自分は正しいとして譲らない人間の愚かさが招いたものでしょう。われわれの身近に見られる諍いや権力闘争等もまた同様です。「私は常に正しい」とする心の闇が、他の者の人間性を否定し、その結果、自らの人間性をも貶めているのです。困ったことに、そういう私でしかないことにはなかなか気付きません。実に人間とは悲しむべき存在です。
私たちが何らかの意見を主張したり、何かしらの信念の下に行動したりしても、それは様々な条件、即ち縁によって与えられた一つの立場をもって主張したり、行動したりしているに過ぎないのです。一定の立場でものを語ってはいけないということではありません。限られた立場に立ってしかものが言えない存在が私であるということでしょう。すると、人間の言動に本当の意味での正しさはないことになります。自分は正しいという思いにとらわれてものを見ることが、いかに危ういことであるかが分かります。
考えの異なる人と人とが歩み寄るためには、立場を超えて語り合わなければなりません。それは妥協して表面的に仲良くすることでも、互いに依存し合うことでもありません。立場を超える道は、実は何らかの立場をもってしかものが語れないという、私自身の愚かな身の事実に気が付くことにおいて他はないと思います。人間は自分の愚かさに気付いた時に初めて、立場を超えて人と同じ地平に立つことができるのでしょう。
結局私を苦しめて来たのは、自分自身への執着だったのではないでしょうか。それは自分をどこまでも正しいとする闇です。しかも闇にありながら、それを闇として意識できていないことに、私たちの問題があるのでしょう。確かに平穏な時を送っている限り、傲慢な人間の本性が真実を見る目を覆ってしまいます。むしろ苦悩を伴ってこそ、自分の心が闇であったことに気付かされます。人間が生きる意義を見失って困惑しているのが現代です。そして東日本大震災が、いのちの意味を根底から問い質しました。この厳しい今の社会においてこそ、私たちは悲しむべき自分の相(すがた)に心から向き合うことができるのではないでしょうか。
真っ昼間によく見えない灯火は、闇においてこそまばゆい光を放ちます。闇を闇として捉えて初めて、光に出遇うことができるのです。ですから闇は決して絶望ではありません。むしろ苦悩するところにこそ、決して見捨てないという仏の願いが息づいているのです。闇の中でいのちを輝かせる光となってはたらくのです。
自分のことしか顧みることのできない愚かな身であることに気付かせ、この悲しむべき存在として生きるしかない者を救わずにはおかないのが、阿弥陀如来という仏様なのだと思います。そして人が自分と同じように、悲しい存在を生きる身であることに思い至れば、人に心を開き、すべての人々と共に歩む道が開かれるのでしょう。この苦悩に満ちた世の中を生きる人間の一人として、仏の呼びかけを聞いていくことに、現代を生きる私たちの依り処があるのではないでしょうか。

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