今朝も東日本大震災の課題を通して、現代人の生きる道を親鸞聖人に尋ねて参りたいと思います。
東日本大震災から3年半の時が過ぎましたが、復興への道は容易なものではなく、被災者の中には、今なお不自由な生活を余儀なくされている方が大勢いらっしゃいます。
被害の痛手から一刻も早く立ち直って欲しいという想いから、震災以来世の中には、「がんばろう」とか「希望をもとう」といった言葉が溢れていました。確かにそれらの声に被災者が励まされる場合も多いでしょう。しかし時には、「もう十分に頑張っているのに・・・」というように、心の負担になることがあります。逆に励ます側からすれば、厳しい現実を前にすると、「頑張れ」としか言葉のかけようがないというのが、本当のところなのかも知れません。
困っている人がいれば、何とか助けたいと思うのが人間です。多くの人が義援金を出した上に、被災地で支援のボランティア活動をしている人もいます。一方で、被災者への支援と言っても何をすべきか、どうしたらよいのか、戸惑っておられる方も多いと思います。
はたして今親鸞聖人がおられたなら、今度の震災でどうされただろうか、と考えてしまいます。文献等から推測すると、被災地の地獄のような光景を目にして、なす術もなく呆然と立ち尽くしたのが、実は若き日の親鸞聖人であったと思われます。そしてそれは、今の多くの私たちの姿なのではないでしょうか。
人を気の毒に思って何とか救いたいという心は起こるのですが、実に自分の思うように人を助けることはとても難しいことです。被災地でボランティアを経験した人たちが感じたのは、人の役に立ったという自己満足ではなく、自分の力が間に合わないことへの痛みだったと言います。被災者のために何ができるわけでもなく、自分が生きていくだけで精一杯、自分は本当に役に立たないと、悲観している方もあるかも知れません。もっと裕福なら義援金もたくさん出せたのにとか、若かったら被災地へ行くこともできるのにとか・・・。今の厳しい世の中では、またそうした思いを抱いている人が少なくないと思います。
実は何もできない、なしようがない、被災地で厳しい生活を余儀なくされている人たちに心を痛めながら、何らとって代わることもできない、そういう私でしかない、と思い至る時、お念仏が本当に響いて来るでしょう。まさにその時、限りある自己を受け止め、その有限な自己を尽くしていける世界が開けるのだと思います。被災者への支援になるか否かに関わらず、すべてを阿弥陀如来に託して、与えられた自分の分を尽くす以外に生きる道はないと定まるのでしょう。
悲しみの中から響く「あなたはあなたでよいのだ」という呼びかけに気付いたならば、仕事なり、生活なり、何をするにしても、その時その時自分に与えられた分を尽くし、この一瞬一瞬を精一杯生きていくことになるでしょう。たとえ目に見えた形での被災者支援にはならなくても、一つ一つの行為が人を生かす力となり、さらには災害復興への大きなエネルギーに繋がっていくのではないでしょうか。
「がんばろう」というかけ声よりも、一人ひとりが限りある自分を見つめていくことが、いつまでも被災地を忘れないことになると思います。そして、誰もが与えられた自己を尽くしていくことが、被災地への継続的な支援に繋がっていくと信じています。