現代社会は様々な状況を通して、私たちに実に多くの課題を投げかけます。この厳しい時代に生きる道を、親鸞聖人に尋ねて参りたいと思います。
天候が不順だった今年の夏は、広島の土砂災害等全国で多くの惨事が起きました。被災者の方々が置かれている状況を思うと本当に心が痛みます。一方で平穏な生活を送る私たちがよく口にするのは、「被害に遭われた人たちに比べて、自分たちは何事もなくて結構です。これも仏様のおかげです」という言葉です。一見素直に感謝しているようですが、実にこれは、自分の思うように事が運んでいることが有り難いだけではないでしょうか。自分にとって都合の良い結果が得られたから受け容れられるのです。ひとたび都合の悪いことが起きたなら、そのような思いは一瞬にして崩れ去ってしまうでしょう。
災害の報道を通して、被害に遭われた人たちを気の毒に思っても、同じことが自分の身にも起こり得るとは、なかなか考えようとしません。自分だけは大丈夫だろうと、心のどこかで思っていないでしょうか。いのちが自分の意のままにあると考えてしまうところに、浅はかな人間の相(すがた)が現れています。
3年前の3月11日、マグニチュード9.0という国内観測史上最高、世界最大級の巨大地震が、東北地方を中心とした東日本一帯を襲いました。地震による甚大な被害の中でも、とりわけ私たちを震撼させたのは、東日本の太平洋岸を襲った大津波でした。自然の凄まじい力の前に、人間はまったくなす術がありませんでした。
私たちが目にした地獄絵図のような光景は、時代こそ違え、800年前に親鸞聖人が、戦乱と災害の中で目の当たりにされた惨状と何ら変わらなかったと思います。受け止め難い現実は、人生は思い通りにならないものだという重い事実を、聖人に示したことでしょう。まさに「生死無常」、この世のすべてのものは、人のはからいも及ばずに移り変わっていくのである、という仏教の真理に、今、私たちもまた向き合わざるを得ません。
自分の思いを超えてあるいのち、人生を我がものとすることで、迷い苦しんでいるのが私たちです。普段の生活において自分では気付かない相(すがた)が、震災を通して顕らかになったということではないでしょうか。あの大津波によって多くの命が失われたことは、まことに理不尽であり、不条理の極みです。しかしこの苛酷な体験を通して、思い通りにならない人生のありのままの相(すがた)を顕らかに知る時、私のものと考えているいのちが、実は自分の思いを超えてあることを教えられます。この自らの思いを超えたいのちを生きているのが、私たち人間なのです。
その私たち人間の側からものを見ている限り、悲しみは避けたい対象でしかありません。しかし現実に私たちは、この思い通りにならない人生を悲しみと共に生きていかなければなりません。誰もが背負っている人間であることの深い悲しみに目覚め、生きていくことのどうしようもない痛みを受け止めていく、その眼(まなこ)が震災を経て開かれたのでしょう。そして、生きることの悲しみに向き合う目が開かれるところには、その悲しみを力に転じる仏の限りない願いが、必ずはたらいていると思われます。
震災で亡くなった人々を悼むと同時に、理不尽な現実を憂える自分の心を深く見つめることで、人は阿弥陀如来の呼びかけに耳を傾けることができるでしょう。受け容れ難い自身の有様を、とらわれを離れた力強い身に転じる仏の智慧こそ、私たちが今出遇うべきものではないでしょうか。