仏教では、私たちの生きているこの世界を「濁世(じょくせ)」と言い表しています。「濁(じょく)」はにごりという意味です。つまり「濁世」とは「濁った世界」ということでしょう。にごりという言葉も、この頃はあまり使う機会がなくなってきたようですね。大雨が降った後の川の様子を濁流といいますが、川面からはあの水の中の様子が分からないありさまが「濁り」という状態ですね。それまで、川底が見通せるような透明度のある川に、大量の雨水が土砂を流し込むことで、濁ってしまって水面しか見えなくなるということです。
さて、私たちは、この世に生まれて、この私の人生を生きています。しかし、その人生は、私の人生でありながら「私の思うようにはならないものだ」ということも、すでに経験的に感じ取っています。人生の上には、様々な困難や悲しみが訪れるようなことも珍しいことではないのだと分かっています。だからこそ、この一生がただ苦しみや悲しみだけで終わるのではなく、「いい人生だった」といえるようないわゆる「幸せ」を求めずにはいられないのでしょう。私たちの最大の関心事は「幸せになる」こと、もしくは「幸せに近づく」ことといえるかもしれません。しかし残念なことに、私たちは幸せということがどうゆうことなのかを知りません。だから、こうすれば幸せになるといえるような確かな方法を知ってはいないのでしょう。それでも幸せに近づく為に、少しでも役立ちそうなことを、世間を見回しながら探しているのでしょう。
私達が迷う時、明らかな間違いと正しい選択との間で迷うことはありません。迷うのは、どちらがより良いのかで迷うのでしょう。つまり、より良い選択を選び損ねることはあっても、選択をするその時点で、明らかな間違いを選択することはないはずなのです。そのように日々幸せに近づくための選択を積み重ねてきたはずなのに、ある時突然に「こんなはずではなかった」と言わねばならないようなことがこの人生に訪れます。幸せになれるように、世間が善いということを選んで積み上げてきたのに、幸せに近づくどころか不幸になっていく。こんな経験は誰しも、一度や二度ではないでしょう。良かれと思ってやったことが、どうしてこんな結果になってしまったのかわからない。人生の折々でより良い選択をしてきたはずだから、こんな事になるはずはないのだと。一体何が原因でこんな目に合うのかと、自分の人生でありながら、過去にさかのぼってみても苦悩の原因が見当たらないということになります。また、原因が見つからなければ、人生における生き方の修正も出来ないということですから、この人生の行く先が分からないということになります。幸せを願ってはいるけれど、この私の生き方の先にどんな人生が訪れるのか、未来を見通すことが出来ないということになるのでしょう。しかし、それでもこの世をわたって行かねばならないのですから、何がしか、頼れることがなければ歩むどころか立っていることもできません。それは、真っ暗闇の中で、地面をすり足で探りつつ片手を伸ばして、身を預けられるものを探すように進む時、一度自分を預けた物から手を放すことが出来ないように、これまでの人生で善くも悪くもこの私が経験してきたことに頼らざるをえなくなるのです。
このように人生というかたちでこの世をいきているのですが、人生の過去も未来も見通すことが出来ないということを、仏教では濁りの世界「濁世」と教えているのでしょう。そして、その濁りの世界では、自分の手の届く範囲、すなわち、自分の経験に基づく判断しか頼りにはしていないのだということなのでしょう。