親鸞聖人のお書きになられたものに「群生」ということばがあります。「群生(ぐんじょう)」とは「いのちあるもの」という意味で、仏教でいう衆生と同じ語源の言葉です。教えの上では、多くの場合は私たち人間を指しています。「群生」の「群」は「むれ」であり「じょう」は生活の「生」。すなわち「群れを生きる」という意味がうかがえます。
ところで、最近のテレビ番組はどのチャンネルでも同じような種類の情報番組が多く放映されていると感じませんか。その一つは、いわゆるグルメ番組。地方の旬の食材や特産品を用いた有名な料理を、まさにその旬の時期に味わうというもの。また、知名度は低いけれど、その地元で愛され続けている、B級グルメとよばれる安価で庶民的な料理などを紹介するものもあります。もう一つは旅番組です。国内の温泉地を巡る旅だったり、歴史的名所を訪ねたり、世界遺産を訪れるものから、ローカル線のバスをただただ乗り継いで目的地を目指すものなどこちらも様々です。いずれにしても、長引く不景気の中、出来るだけ出費を抑えようと旅行や外食を控えてきたが、もう不況の冬は終わったよ、景気回復の春が来たから、さあ、家を飛び出そう。旅に出て、グルメに舌鼓を打って、あなたも景気回復に一役買いましょうと言われているように感じられます。しかし、誰もがその誘いに応じられるわけではないですね。人は皆、何らかの事情を抱えているものです。
そして、さらに一つ。それは様々な生き物の世界を取り上げた動物番組です。特に大自然の中で懸命に生きる動物の姿に、時には感動を覚えることすら稀ではありませんね。そんな中で、先日、私が目にした番組は、野生保護区の中で、若いライオンが苦難の中を生き延びて成長していくものでした。この番組の中で、ライオンが獲物を得るために何度も狩りをおこなうシーンが映し出されていました。私も今までに何度も目にしてきた情景です。しかし、今までは獲物を狙うライオンの視点でこの狩りを見ていたようです。ところが、この度は襲われる草食動物の様子に目が留まりました。それは、何十頭もの群れの中で、周囲の危険に注意を払っているのはほんの一部で、多くは下を向いて草を食べている状態でした。しばらくすると、今度はそれまで草を食べていたものの中で、また数頭が頭をあげて周囲を警戒しています。どうやら、決まりはないようですが、交代しながら監視役をしているようです。そこに、草陰から一頭のライオンが近づいてくるのを見つけた途端、その見つけたものが一目散に逃げ始めるのです。すると他の草を食べていたものも、その下を向いた状態から、近づくライオンを確認すること無く一斉に走り出すのです。その有様は、見張り役は群全体の命を預かって見張りをしているし、草を食べているものは見張り役に自分の命を預けているように見えました。誰が見張っているのか判らないけれど、群れそのものに命を委ねることで生き延びているのでしょう。
群れを生きるとは、このように、個人とそれを取り巻く人々や環境とが一体となることで生き延びていく有り様であり、それから離れたら、生き延びることが出来ない有りようを表しているようにも思えてきました。親鸞聖人がこの「群生」という言葉をお使いになっていることに、今日の私たちにおいても、人が生き延びて行くうえでは、それぞれの日常の好き嫌いや良し悪しの思いを超えて、互いにいのちを一つにしてここまで生き延びてきたのだとお示しになられているのではないかと思うのです。