ラジオ放送「東本願寺の時間」

仲谷 俊昭/岐阜県 往明寺
第六回 求めて止まぬもの音声を聞く

 色々と思い浮かぶままに話を続けてきましたが、纏まりのないまま、今回が最後になりました。今までお付き合いを頂き、有難うございました。
 これまで繰り返してきたように、私たちの関心事は「思い通りにならない人生だからこそ、苦しみや悲しみだけに終われない。少しでもいい人生だったと言えるよう、幸せに近づく道を探す」ことであると言っても良いでしょう。これまでの人生で、経済問題で苦しめばお金が大切だと思い、病気でつらい思いをすれば健康で過ごせることが一番だと感じた。家族の諍いを経験して、ささやかでも家族が笑って過ごせるこの時をずっと守り続けたいと願った。その実現の為に、世間の情報に耳をそばだてて、少しでも役に立ちそうな話があるとそれを取り入れ、逆に、世間で気を付けたほうがいいという情報があれば、それらをこの身から遠ざけてきた。私の人生はこうして繰り返されてきたのです。この日常を支えてきたのは、自分の思いに応えてくれる都合のいい話なのでしょう。私の日常の心は、この私を認め、励ましてくれるような、自分に都合のいいことばかりを求めてきたと言わざるを得ません。では、私の中には、そういう都合の心しかないのでしょうか。
 もう二十年以上前のことです。私の先輩の所に出入りしている、Aさんという個人事業主の人がいました。ある時、そのAさんは事業に失敗し、数億円の負債を抱えてしまったそうです。その負債の余りの大きさに、しばらくは茫然自失の状態が続いたようです。しかし、Aさんには妻子も有り養っていかねばなりませんでしたが、その日の食事にも困ったそうです。ついには、一家心中をも考えるにまで至りました。その状況を知った先輩は、Aさんに「あなたたち家族の食事だけは、必ず俺が面倒見るから」と言って、毎朝必ず、一升炊きの電子炊飯器にご飯を炊いて、梅干しを入れた丼と共に届けるようになったそうです。来る日も来る日も玄関先で「おおい、ご飯ここにおいとくでなぁ」とだけ言って届けていくのだそうです。確かにその日の食事に困るようにはなっていましたが、Aさんの抱える負債は億単位なのです。毎日届けられるご飯と梅干を見ながら、Aさんは、何か馬鹿にされているような釈然としない思いにかられて、玄関で声がしても返事もしなくなくなっていったそうです。やがて、Aさんは少しずつ仕事をはじめ、僅かながらでも負債の返済の目途が立ち、自分の収入で家族の生活も何とかなるようになった時、初めて、空になった炊飯器と丼を持って「長いこと済まなんだ、もうええわ、今日までありがと」といったそうです。すると、先輩は「もおええのか、そうか。あのなAさん・・・」と何事もなかったように世間話を始めたそうです。先輩の所に出入りし始めた私に、無口なAさんが一度だけ話してくれたのは、たった、これだけの話でした。この話を聞いた私は、この先輩のように生きてみたいと思い、今でも同じ思いを抱いています。もちろん、そんなことがお前にできるのかと言われたら「出来ません」と答えるしかありません。自分の心の中を覗けば、得するなら一円でも得したい、損することは一円でもしたくないという損得勘定が支配しているし、本当になすべきことはさておいて、他人から褒められることならするくせに、他人の目にかなわなければ気づかぬふりで通す。こんな私には出来るはずもないのは分かっているのですが、それでも、こんな人になりたい、こんな心で生きてみたいと思うのです。
 私たちの心の奥底には誰にでも、日常の都合の心では治まらない、求めてやまない欲求があるのではないでしょうか。この求めてやまない欲求を護り育ててくれることこそ、親鸞聖人のいただかれた阿弥陀如来の仏道だと感じるのです。

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