ラジオ放送「東本願寺の時間」

仲谷 俊昭/岐阜県 往明寺
第四回 宗教的世界音声を聞く

 これまでの放送で、私たちの最大の関心事はどうしたら幸せになれるのか、また、幸せに近づけるのかということではないのだろうかといいました。しかし、その日常の暮らしの大半は、幸せに近づく道とは言い難いような些末な事柄に費やされているのではないでしょうか。もう大都会では失われつつあるのかもしれませんが、ご近所や地域とのお付き合い、職場や仕事上の関係に、冠婚葬祭・季節の挨拶など、この世を生きる上ではこうした様々な付き合いの中でそれなりに相手を気にかけた関係を保たねばなりませんね。家から外に出て、ご近所の人に出合えば「今日は暖かいですね」また「寒くなりましたね」とお天気の話をしませんか。これは天気状況を互いに確認し合っているわけではなく、「近所に生活するものとして、あなたの存在を気にかけていますよ」というサインなのでしょう。度重なる災害を経験してきた中で、最後にこの身を守ってくれるのは、政治や行政ではなく、身近な人との助け合いや支えあい、人と人の繋がりなのだとの受け止めもあるのでしょう。
 本来なら自分自身の関心事に従って幸せや幸せに近づく道をひたすら求めねばならないのに、次々に現れ出る他人との関係を維持するために、自分の主張は控えめにして、相手に対し、それなりの気使を示していかねばならないのです。
 こういった近所付き合いや他人とのかかわりを煩わしく思わないわけでもありません。出来る事なら、こういう世間ごとに振り回されずに、自分自身の人生の目的である幸せを掴むためだけに、一度しかないこの人生を費やしたいのだという思いを心の隅に抱き続けてはいないでしょうか。いわば、世間を離れて、山に籠り、ひたすら修行に打ち込む出家の世界、または、世俗の暮らしを捨てて、純粋なる信仰の世界に生きてみたい。もしもそんな人生が歩めたならば、悔いのない充実した人生が送れるのでは無いだろうかという心境にもなりますね。私たちに於ける宗教的関心の一端ともいえるのでしょうか。
 この意味においては、私たちにとって宗教的世界とは、煩わしい人間関係や地域や職場といった生活環境からの束縛を離れた、自由自在な理想的精神環境とでもいえるのでしょうか。こういった私たちの受け止め方が反映してか、多くの宗教の形態は、その宗教の掲げる世界観を聖なる世界とし、その対極にある世界観を俗なる世界として表して、私たちに、聖なる世界を求めて俗なる世界を離れて宗教的生活をすることを勧めることで、私たちの関心事に応えようとしてきたかのようです。まさに仏教においても、世俗を離れて仏道修行に身を投じる出家主義がその中心の時代が長く続いていました。たとえ、悟りを開くまで修行者として苦行を積み続けなくとも、生涯の間に一度は出家の身となり世俗を離れることが、その人を精神的高みに誘うことのように受け止められていたようです。しかし、このような有り方は誰もが実現できるものでは到底ありません。ほんの一部の条件に適った者の上にしか実現しない極めて特殊な有り方だと言わねばなりません。つまり、こういった出家者という存在そのものが、宗教的価値観の対極にある世俗的価値観、すなわち私たちの経験的判断では捉えられない特別な存在となっていくことになります。わたしたちには知りようもない特別なことを知っている人、その人の言葉を信頼して従っていくしか、知らない者、出来ない者の進む道はないのだと示されれば、頷くしかないでしょう。
 こじつけのようですが、今日の情報化社会に漏れる者とこの宗教世界から漏れていく者とが重なって感じるのは私だけではないのではないでしょうか。

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