ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘/石川県 光闡坊
第一回 現代と親鸞音声を聞く

 現代と親鸞というテーマを与えられております。人間はどの時代においても、その時代と社会を自らの世界として生きています。しかし、現代を自らの世界として生きていながら現代を自覚的主体的に生きることは非常に難しいことです。様々な問題、困難を抱えて展開する現代を、外から批判し批評することは、それほど難しくはないのですが、現代を生きることが自らの問題とはなかなかなりません。それどころか、いつの時代でもその時代社会の中で自己保身に懸命にならざるを得ないというのが現実です。親鸞聖人はその著書の中でご自身の生きられている時代、元仁元年に我がというお言葉をつけ、我が元仁元年と記されています。その時を現代として、その時代社会を我として生きられたということです。その元仁元年は、末法、すえのほうと書いて末法、つまりお釈迦様の教えが人の救いとならなくなる末の時代、その時代にはいって683年が過ぎた時代であると記されています。その末法には、教えが滅び尽き、人がいなくなると記されています。それは、人数が減るということではなく、人間が人間であるということを見い出せなくなる時が来たということでありましょう。それが末法であり、聖人はそれを我が現代として生きられたということであります。
 また、人間は現代という時代社会に身を受けて、それを我として生きつつも、そのことで尽きるものではなく、時代を貫く歴史をも我が内容として生きる存在でもあります。中世を生きられた親鸞聖人という言葉が、その語られたお言葉をもって、歴史を貫いて現代に伝わっています。その親鸞聖人のお言葉との出遇いが現代の自分を言い当ててくる。そこに歴史的深さ、或いは開けの中に自分を見い出すことになります。更に、自らを言い当ててくる教えの深さは、どこまでも更に聞いてゆくべき無辺の教えの世界でもあります。その意味で単に過去ばかりではなく、未来としても開かれる。この歴史性の開けの中にこそそれぞれの時代社会を生きるものとしての人間が見出されてきました。まさにこの歴史性の開けの中に人間が見い出されるということを浄土真宗として明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。親鸞聖人の言われる浄土真宗とは、鎌倉時代に起こった一宗派という意味ではありません。むしろお釈迦様のおられた頃も、お釈迦様の亡くなられた後の時代も、今も、後のこの世の終わりまでどの時代においても苦しみ悩まざるを得ない苦悩の存在を斉しく深い悲しみをもって受け止め、呼びかけてくる、それが浄土真宗であると言われるのです。浄土真宗はそれぞれの時代社会に、様々な境遇を生きる人間を普遍的な歴史的開けの中にそれが自分だと頷かせる働きであり、そこにわたしたちは、歴史を超えて呼びかけられていた自分を自分として深く受け止めるのです。浄土真宗において、歴史を超えて共に救われていくことが求められているのです。ですから、聖人の言われる浄土真宗は人間を根本的に救われなくてはならないものを抱えた宗教的存在であると見ているのです。人間を深く見い出してきたのです。この現代と親鸞というテーマは、現代の問題を親鸞聖人の思想によって理想的に解決しようということを目的にしているのではないと思います。様々な問題や困難のある時、その解決を求めますし、求めざるを得ません。しかし、その延長の上に人間の問題が決着つくということはありません。それは人間の歴史がすでに証明していることです。お釈迦様の頃より今の方が苦悩が少なくなったということはないのです。現代の様々な問題や困難が示しているのは現代が問題であるということではなく、現代において人間そのものが問われているのです。現代の危機が叫ばれますが、その本質は人間の在り方の危機ということでありましょう。現代と親鸞というテーマにおいて人間が明らかになることが願われていると感じます。

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